諏訪湖周辺にある4つの諏訪大社のなかで、もっともにぎわいをみせるのが、諏訪大社下社秋宮(しもしゃあきみや)。中山道(なかせんどう)と甲州街道の合流点、下諏訪宿(現・長野県下諏訪町)に建ち、江戸時代にも街道を歩く旅人や大名も参拝しました。数え年7年に一度の『御柱祭』(おんばしらさい)で有名です。
全国2万5000社ある諏訪神社の総本社
信濃国一之宮の諏訪大社。
全国各地に2万5000社ある諏訪神社の総本社で、下社秋宮は一位の木(イチイ)を御神木としています(本殿はありません)。
創建は定かではありませんが、日本屈指の古社であることは明らか。
祭神は、八坂刀売神 (やさかとめのかみ)建御名方神 (たけみなかたのかみ)。
社前の道は、旧甲州街道で、神社すぐ北側・綿の湯跡前で中山道と合流します。
鳥居左側の宝物殿には、源頼朝直筆の下文(鎌倉時代の公文書)も収蔵。
社殿の四隅に立つ御柱(おんばしら)は、『御柱祭』(正式名は式年造営御柱大祭/しきねんぞうえいみはしらたいさい)の際、霧ヶ峰から10kmもの道のりを切り出したもので、長さ16m、重さ16tの巨木。
「一の御柱」は一番太く大きいので見応えも十分。
鳥居正面の御神木「根入りの杉」(樹齢600年〜700年)も必見の価値があります。
古代から長い伝統を誇る御柱祭は、寅と申の年に行なわれる式年祭で『日本三大奇祭』にも数えられています。
祭神の建御名方神は、出雲神の大己貴神(おおなむちのかみ=大国主神)と高志国(越の国=現在の福井県から新潟県などにかけて)の女神・沼河比売(ぬなかわひめ、奴奈川姫)の子。
糸魚川市などに残される伝承では、建御名方神は、フォッサマグナ沿いに姫川をたどり、諏訪湖に鎮座したとのこと。
古代の勢力争い、開拓の物語が伝承として残されているのかもしれません。
武田信玄も尊崇した武神
建暦2年(1212年)、 鎌倉幕府の成立以降は、武家の間で鷹狩りが盛んになり、農民の野良仕事の邪魔になることを恐れた鎌倉幕府は諸国の守護・地頭に鷹狩禁止令を出しています。
その際、諏訪大明神の贄鷹( にえたか )の神事(「神御贄鷹」=鷹で捕えた獲物を神に供える神事)については例外的に許可したため、諸国の御家人が諏訪大社を相次いで勧請する契機となり、そのため全国に諏訪神社が生まれ、諏訪大祝( おおほおり )一族が諏訪流の鷹狩を伝えることに(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた小林家次も諏訪流)。
中世では武田信玄も尊崇し、信玄の軍旗に掲げられた「南無諏訪南宮法性上下大明神」は、諏訪大社のこと。
兜(かぶと)も諏訪法性兜(すわほっしょうのかぶと)で、歌舞伎、映画や時代劇で有名です。
霧ヶ峰山上の八島ヶ原湿原近くにある旧御射山(もとみさやま)は下社の社地で、湿原を水田とみなす「神の田」として信仰されてきました。
明治の神仏分離、廃仏毀釈までの神仏習合時代には、別当となる神宮寺があり、千手観音を本地仏(神の本来の姿である仏)にしていましたが廃寺となり、本尊の千手観音像は照光寺(岡谷市本町2丁目)に遷されています。
安永10年(1781年)築の幣拝殿、天保6年(1835年)築の神楽殿、左右片拝殿2棟は国の重要文化財。
諏訪大社下社秋宮のおもな行事
1月1日の『綿之湯神事』、2月1日の『遷座祭』、8月1日の『御舟祭』、そして7年に一度の『式年造営御柱大祭』が有名。
綿之湯神事は、祭神・建御名方神の妃神である八坂刀売神(やさかとめのかみ )が、諏訪大社上社から下社へ渡る際、上社に湧き出る湯を綿に含んで湯玉にして持参、下社前へ供えるとそこから湯が湧き出し、その霊泉をたたえる神事です。
これが下諏訪温泉の始まりと伝えられる湯玉伝説。
ちなみに、諏訪大社には、御神座が半年ごとに社を移動するという他の神社には見られない古来の祭祀が伝わっています。
2月1日に遷座の行列が秋宮から春宮へ向かい、8月1日には春宮から秋宮へ遷座が執り行なわれます。
つまり、2月〜7月には春宮に神様が鎮座しているということに。
諏訪大社下社秋宮 | |
名称 | 諏訪大社下社秋宮/すわたいしゃしもしゃあきみや |
所在地 | 長野県諏訪郡下諏訪町5828 |
関連HP | 諏訪大社公式ホームページ |
電車・バスで | JR下諏訪駅から徒歩10分 |
ドライブで | 中央自動車道岡谷ICから約5km |
駐車場 | 諏訪大社下社秋宮駐車場(130台/無料・正月期間中は有料) |
問い合わせ | 諏訪大社下社秋宮 TEL:0266-27-8035/FAX:0266-28-7441 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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