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板倉重昌の碑

板倉重昌の碑

長崎県南島原市南有馬町、島原・天草一揆(島原の乱)の主戦場となった原城三の丸にあるのが板倉重昌の碑。島原の乱の征討使として着任した板倉重昌は、新たな征討使、老中・松平信綱が派遣されたのにあせり、寛永15年(1638年)元旦に総攻撃に出て討ち死にしています。

原城三の丸にある板倉重昌の戦没碑

島原藩主の松倉重政・勝家父子は、石高に見合わない豪華な居城・島原城を建設し、農民に過酷な納税を強い、さらに幕府からの要求を受け、キリシタンに厳しい弾圧を行ないました。
こうしたことをきっかけに寛永14年10月25日(1637年12月11日)、島原・天草一揆(島原の乱)が勃発(江戸幕府が経験する最後の本格的内乱)。

一揆軍は天草四郎を中心に、天草の本渡城などを攻略後、有明海を渡って島原に移動し、廃城となっていた原城に籠城します。
これに対し、幕府から派遣されたのが三河深溝藩主・板倉重昌(いたくらしげまさ=徳川家康の近習出頭人)。
ところが、九州の諸侯は小禄(深溝藩1万5000石)の板倉重昌に従わず、幕府の権威も揺らいだことから、老中で徳川家光側近の松平信綱(まつだいらのぶつな)を改めて総大将として派遣します。

これにあせった板倉重昌は、寛永15年(1638年)元旦に総攻撃を命じますが失敗。
板倉重昌も板倉勢を率いて突撃を敢行し、眉間に一揆勢の鉄砲の名手・三会村金作(関ケ原合戦以前は小西行長の家臣・駒木根友房、その後、島原半島三会村に潜伏)が放った銃弾の直撃を受け、戦死してしまいます(墓所は島原市の江東寺)。

板倉重昌の碑は、島原・天草一揆(島原の乱)後43年目の延宝9年(1681年)、板倉重昌の孫・板倉重道の依頼で建立が計画され、碑文を彫って幕府に建立を申し出ていますが、許可されず放置されています。
その後、寛政10年(1798年)になってようやく、島原藩松平家主席家老・板倉勝彪(いたくらかつたけ=先祖は伏見城籠城戦で豊臣方の猛攻を受けて討ち死に。子孫は深溝松平家に客分として仕え要職を歴任)が建立。
撰文は、林羅山の孫・林鳳岡(はやしほうこう)なので、板倉重道の依頼によるもの。

原城は、世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産にもなっています。

板倉重昌の碑
名称 板倉重昌の碑/いたくらしげまさのひ
所在地 長崎県南島原市南有馬町大江
ドライブで 長崎自動車道諫早ICから約52km
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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