江東寺・涅槃像

江東寺・涅槃像

長崎県島原市中堀町、島原城の城下町の一画にある曹洞宗の寺が、江東寺(こうとうじ)。永緑元年(1558年)創建の寺で、島原城を築いた松倉重政(まつくらしげまさ)、島原の乱で戦死した板倉重昌(いたくらしげまさ)の菩提寺。境内にある涅槃像(ねはんぞう)は、昭和32年に安置されたもの。

釈迦が入滅前、最後の説法をする姿を描いた涅槃の像

江東寺・涅槃像

永緑元年(1558年)、キリシタン大名・有馬晴信(ありまはるのぶ)の弟・宣安明言(せんあんみょうげん)が北有馬・田平に開山したのが始まり。
肥前日野江藩主となった松倉重政が、元和の一国一城令により、原城と日野江城を廃して島原城を築城した寛永元年(1624年)、城下郊外の今村に移して菩提寺とし、寺名を江東寺に変えています。

その後、松倉重政、松倉勝家(まつくらかついえ)の圧政に対して、1637年~1638年(寛永14年~15年)、農民やキリシタンが蜂起した島原・天草一揆(島原の乱)が勃発。
討伐軍として幕府から派遣された板倉重昌は、討伐上使として老中・松平信綱が重ねて派遣されたことに危機感を抱いて無謀な総攻撃を行ない戦死。
板倉重昌の墓所は、江東寺と出身の三河国(愛知県西尾市)の長圓寺の2ヶ所あります。

寛政4年4月1日(1792年5月21日)、雲仙岳の火山活動による眉山の山体崩壊で、寺は流出し(現在の白土湖の底がかつての墓地)、その8年後に現在の寺地に再建されています。

再建を祝って文政11年(1828年)奉納されたのが『涅槃図』。
その『涅槃図』を元にして昭和32年、コンクリート仏師・福崎日精(ふくざきにっしょう)作で建立されたのが境内に横たわる涅槃像です(九州では柳川・等応寺の涅槃像が同じ福崎日精作で、昭和41年建立)。
鉄筋コンクリート造りとしては日本最大で、全長8.1m。
足の裏に大法輪の相(仏足石)が刻まれた最初の例なのだとか。
頭部は、信者による写経1万巻が納められ、台座は歴代住職の納骨堂になっています。

ちなみに、釈迦が弟子たちに見守られて、身を横たえ息を引き取る姿を表したのが釈迦涅槃像。
涅槃とはいわゆる死ではなく、煩悩の火を吹き消した入滅(にゅうめつ)、入涅槃が正しい表現です。
涅槃仏には最後の説法をする目が開いている姿と、目を閉じたすでに入滅した姿がありますが、江東寺の涅槃像は入滅前の説法を行なう姿で、説法涅槃大仏像とも称しています。
釈迦の入滅後、56億7000万年後に弥勒菩薩が衆生を救済するというのが日本に伝わる大乗諸経典(大乗仏教)の教えです。

江東寺・涅槃像
江東寺・涅槃像
名称 江東寺・涅槃像/こうとうじ・ねはんぞう
所在地 長崎県島原市中堀町42
関連HP 島原市公式ホームページ
電車・バスで 島原鉄道霊丘公園体育館駅から徒歩10分
ドライブで 長崎自動車道諫早ICから約43km
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 江東寺 TEL:0957-62-2788
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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