長圓寺

長圓寺

愛知県西尾市貝吹町にある曹洞宗の寺が、長圓寺。家康の忠臣・板倉勝重(いたくらかつしげ)、その次男で島原・天草一揆(島原の乱)で戦死した板倉重昌(いたくらしげまさ)の一族の菩提寺。現存する山門、霊廟の肖影堂は寛永7年(1630年)の創建時のもの。

板倉勝重板倉重昌の菩提寺

板倉勝重は、天文14年(1545年)、三河国額田郡小美村に生誕。
幼少時に出家して僧になっていましたが永禄4年(1561年)、父・板倉好重が松平元康(後の徳川家康)と吉良義昭(きらよしあき)の間の合戦、善明提の戦い(ぜんみょうつつみのたたかい)で戦死。
さらに家督を継いだ弟・板倉定重も天正9年(1581年)、武田勝頼と徳川家康の間の高天神城の戦い(たかてんじんじょうのたたかい)で戦死。
徳川家康の命により、還俗して板倉家を継ぎ、天正14年(1586年)、徳川家康の駿府入封で、駿府町奉行に、天正18年(1590年)の江戸転封では、関東代官、江戸町奉行に就任。
そして慶長6年(1601年)には三河国3郡に6600石を与えられて、京都町奉行(後の京都所司代)に任命。
寛永元年4月29日(1624年6月14日)に80歳で没しています。

板倉勝重の長男が、板倉重宗(いたくらしげむね)で、やはり京都所司代。
板倉勝重没後に、遺領を弟・板倉重昌(いたくらしげまさ)と分割して相続しています。
第3代将軍・徳川家光の忠臣だった寛永7年(1630年)に板倉家の菩提寺として長圓寺を創建。
板倉勝重の霊廟として建立された肖影堂の扁額は、京・詩仙堂で有名な石川丈山(いしかわじょうざん)の筆。
石川丈山も三河国泉郷(現在の愛知県安城市和泉町)の出身で、寛永7年(1630年)頃の筆であれば広島藩主・浅野長晟(あさのながあきら)の家臣だった時代のもの。

板倉勝重の次男が有名な板倉重昌。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、豊臣方との交渉を任せられ、寛永14年(1637年)の、島原・天草一揆(島原の乱)ではその討伐軍の総大将になって討ち死に(墓所は島原市の江東寺と、長圓寺の2ヶ所)。

板倉重宗が父勝重の霊廟として建立

三河七福神の布袋尊(子安布袋尊)を祀っています。

長圓寺
名称 長圓寺/ちょうえんじ
所在地 愛知県西尾市貝吹町入101
関連HP 西尾市公式ホームページ
電車・バスで 名鉄西尾駅から名鉄東部交通バス藤田医大岡崎医療センター行きで貝吹下車、徒歩10分
ドライブで 東名高速道路岡崎ICから約12km
駐車場 あり/無料
問い合わせ 長圓寺 TEL:0563-52-1002
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
板倉重昌の碑

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