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臼杵城・畳櫓

臼杵城・畳櫓

大分県臼杵市にある臼杵城に現存する往時の櫓のひとつが、畳櫓。江戸時代の臼杵城は本丸、二の丸の周囲は海で、陸側の三の丸とは今橋と古橋で連絡されていました。古橋口から二の丸へと登城道・鐙坂(あぶみざか)を上ると畳櫓が建っています。往時には中門櫓もありましたが、現在は失われています。

二の丸の橋、鐙坂一帯の登城口を守備する二重櫓

臼杵城は、戦国時代に大友宗麟が築城し、慶長2年(1597年)、臼杵城主となった太田一吉(おおたかずよし)が修復を行なっていますが、近世城郭として城と城下町を整備したのは、慶長5年(1600年)、関ヶ原合戦直後に城主となり、臼杵藩の初代藩主となった稲葉貞通(いなばさだみち)。

現在では周囲は埋め立てられて小山のように見えますが、当時は丹生島の西端に本丸を築き、さらにその東に二の丸を配していたのです。
畳櫓は、典型的な二重櫓で、古橋を渡り、堅固な古橋門枡形を抜け、鐙坂を上がった先に櫓が並んでいたのです。
桁行4間(7.92m)、梁行3間(4.44m)の畳櫓ですが、現存する建物は、宝暦13年(1763年)の大火で焼失後、明和年間(1764年~1772年)の再建と推測されています。
畳櫓という風変わりな名の由来は、文字通り、建物内に畳が敷かれていたからという説と、城下の祇園社(現・八坂神社)から巽(たつみ=東南)に位置するので、巽が畳に転訛したという説があり、定かでありません。

臼杵城内で現存する往時の建築物は、二の丸の畳櫓のほかには、本丸の卯寅口門脇櫓(うとのぐちもんわきやぐら)のみで、二の丸正門の大門櫓は復元です。

中央が復元された大門櫓、右端が畳櫓
臼杵城・畳櫓
名称 臼杵城・畳櫓/うすきじょう・たたみやぐら
所在地 大分県臼杵市臼杵
関連HP 臼杵市観光情報協会ホームページ
電車・バスで JR臼杵駅から徒歩10分
ドライブで 東九州自動車道臼杵ICから約3.4kmで市営下屋敷前駐車場
駐車場 市営下屋敷前駐車場(45台/30分まで無料、以降有料)
問い合わせ 臼杵市産業観光課 TEL:0972-63-1111
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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