大分県日出町(ひじまち)、北側から別府湾に突き出した南端の台地に築かれた平山城が日出城(ひじじょう)。慶長7年(1602年)、初代藩主・木下延俊(きのしたのぶとし)が築いたもので、3代藩主・木下俊長が中国古書『淮南子』より引用し名付けた「暘谷城」(ようこくじょう)の名でも知られています。
天守台の石垣などが現存
慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦を経て、慶長6年(1601年)に日出藩木下家の誕生、日出藩が立藩し、その藩庁として築城されたのが日出城(暘谷城)です。
豊臣縁故の大名、日出藩木下家は、関ヶ原の合戦の際に東軍で活躍、徳川家康から豊後国速見郡日出3万石を与えられ、16代270年にわたり速見郡内日出3万石(第2代藩主・木下俊治が弟・木下延由に5000石を分与し、その後は2万5000石)を統治しました。
日出城(暘谷城)は、木下延俊(尾張国出身で、杉原定利の子、北政所・高台院は叔母、小早川秀秋は弟)の義兄にあたる細川忠興(ほそかわただおき)が自ら縄張りをするなど支援を行ない、豊臣家ゆかりということもあり、3万石の小藩とは思えないほどの規模と堅牢さを誇りました。
南端が海に面した本丸を中心に、それを囲むように東西に二の丸、その奥に三の丸、外郭(武家屋敷)と、三重の守りという堅牢さです。
本丸には複合型層塔式の3重3階の天守、二重櫓5ヶ所と平櫓が築かれ、別府湾の眺めも良いものだったと想像できます。
天守跡や本丸の穴太積み(あのうづみ)による石垣などが現存していますが、本丸跡には日出町立日出小学校、東二の丸跡には日出中学校が建設され、西二の丸跡には旧藩校の致道館が移築保存されています。
ほかに、解体復元された鬼門櫓(二重の隅櫓で鬼門の北東側の壁の隅がない珍しいもの)、裏門櫓などがあり、本丸の裏門櫓跡(現在の日出小学校東門)には、もともと外大手門にあった元禄時代の時鐘(3代俊長が鋳造)が移築。
今でも朝8時に小学生が時の鐘を鳴らしています。
小中学校の間の海側には天守台跡の石垣も現存、往時の威容を偲ぶことができます。
鬼門櫓のすぐ南側には「日出町歴史資料館・帆足萬里記念館」があり、旧石器時代からの日出町の歴史を学ぶことができます。
ちなみに、日出藩木下家の菩提寺は、康徳山松屋寺(こうとくさんしょうおくじ)です。
儒学を重んじた3代藩主・木下俊長の墓所「横津御廟」は、明治維新後に横津神社(日出町藤原)となっています。
日出城(暘谷城) | |
名称 | 日出城(暘谷城)/ひじじょう(ようこくじょう) |
所在地 | 大分県速見郡日出町2610 |
関連HP | ひじ町ツーリズム協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR日豊本線暘谷駅から徒歩5分 |
ドライブで | 大分空港道路日出ICから約3km |
駐車場 | 二の丸館駐車場(12台/無料) |
問い合わせ | ひじ町ツーリズム協会 TEL:0977-72-4255/FAX:0977-72-9044 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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