埼玉県熊谷市俵瀬、日本公許登録女医第1号となった荻野吟子(おぎのぎんこ)の記念館が熊谷市立荻野吟子記念館。荻野吟子は、令和3年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』主人公・渋沢栄一、江戸時代の国学者・塙保己一(はなわほきいち)とともに「埼玉ゆかりの三偉人」のひとり。
荻野吟子の生涯を年表でたどる
故郷の俵瀬にある荻野吟子記念館は、荻野吟子の生家の長屋門を模した和風建築。
荻野吟子の生涯を時代に合わせて説明した年表や資料を展示しています。
荻野家は苗字帯刀を許された名主・荻野綾三郎、嘉与(かよ)の五女(末娘)。
展示室では荻野家に伝わる什器、荻野吟子が実際に使った医学書、手紙などを展示。
展示される鹿鳴館スタイルの衣装は、荻野吟子の生涯を題材とした松竹特別公演『命燃えて・女医1号・荻野吟子』(平成10年)で、荻野吟子を演じた三田佳子が着た衣装で、荻野吟子が若き日に着た衣装がモデルになっています。
隣接する荻野吟子生誕の地は「荻野吟子史跡公園」として整備され、荻野吟子生誕の地碑、荻野吟子銅像が立つほか、吟子桜(河津桜)が植栽されています。
埼玉県熊谷市妻沼の「大福茶屋」では、生まれ育った熊谷市俵頭瀬(旧妻沼町)の大和芋やネギ、移住した北海道今金町のジャガイモ、開業した北海道瀬棚町の鮭を使用し、味噌風味に仕上げた「吟子鍋」を季節限定で用意(事前に確認してから入店を)。
熊谷市立荻野吟子記念館近くには、利根川に現存する葛和田の渡し(群馬県側の呼称は県道渡船「赤岩渡船」)、さらに上流側の河川敷には日本学生航空連盟のグライダーが離発着する妻沼グライダー滑空場があります(荻野吟子記念館裏手の河川敷には第二滑空場が)。
葛和田の渡しで群馬県側に渡った先にある光恩寺には、記念館の建物のモデルとなった荻野吟子生家長屋門が現存しています。
荻野吟子の生家・荻野家と光恩寺には関係があり、明治18年(吟子が湯島に診療所「産婦人科荻野医院」を開業した年)、荻野家は長屋門を売りに出し、檀家の斡旋で長屋門が移築されたと推測されます。
近代日本初の公許女医、荻野吟子
嘉永4年3月3日(1851年4月4日)、武蔵国幡羅郡俵瀬村(はたらぐんたわらせむら=現・埼玉県熊谷市俵瀬)に生誕(荻野吟子記念館の隣接地が生誕の地)。
結婚2年後の明治3年、夫からうつされた淋病がもとで離婚。
西洋医学の大学東校(下谷御徒町)に入院しますが、治療にあたった医師がすべて男性だったため、一念発起し、女医を目指し、東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)を首席で卒業後、私立医学校・好寿院に入学。
卒業後、医術開業試験願を東京府と埼玉県に提出しますが、女医という前例がないことから却下され、明治17年、医術開業試験前期試験に合格、さらに明治18年、後期試験を受験し合格し、34歳で東京・湯島(本郷区湯島三組町84番地/現在は区画整理などで改変、東京都文京区湯島3丁目・三組坂下交差点付近)に診療所「産婦人科荻野医院」を開業しています(近代日本初の公許女医)。
明治27年には夫・志方之善(しかたゆきよし)がキリスト教の伝道を行なう北海道・インマヌエル(今金町)に渡り、明治30年、瀬棚村(現・せたな町瀬棚区本町)で産科・小児科荻野医院を開業(明治41年まで瀬棚村、札幌など北海道で医療活動を実施)。
ゆかりのせたな町には、「荻野吟子公園」が整備されています(せたな町立国保病院瀬棚診療所は「荻野吟子記念せたな町医療センター」に)。
大正2年、63歳で没し、墓所は、雑司ヶ谷霊園(豊島区南池袋)の1種5号23側。
荻野吟子の生涯は渡辺淳一の小説『花埋み』(はなうずみ)などで広く世に紹介されています。
取材協力/熊谷市
熊谷市立荻野吟子記念館 | |
名称 | 熊谷市立荻野吟子記念館/くまがやしりつおぎのぎんこきねんかん |
所在地 | 埼玉県熊谷市俵瀬581-1 |
関連HP | 熊谷市立荻野吟子記念館公式ホームページ |
電車・バスで | JR熊谷駅から国際十王交通バス葛和田行きで30分、土手上または、葛和田下車、徒歩20分 |
ドライブで | 関越自動車道花園ICから約22km、東松山ICから約24km |
駐車場 | 10台/無料 |
問い合わせ | 熊谷市立荻野吟子記念館 TEL:048-589-0004/FAX:048-589-0004 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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