佐渡といえば金山というくらいにメジャーなスポットになっているのが佐渡金山。金山の坑道を探勝するだけと思ったら大間違いで、実は江戸時代の手掘り坑道の宗太夫坑(そうだゆうこう)と、明治時代の道遊坑(どうゆうこう/国の重要文化財)があって、両方を回ると1時間以上かかる、坑内めぐりとなります。
佐渡金山では犯罪者は働いていなかった!
料金はコース別で両坑道を見学する割引された共通券も用意されているので、できれば宗太夫坑、道遊坑の両方に入坑を。
というのも江戸時代開削の宗太夫坑には『佐渡金山絵巻』に描かれた採掘作業が人形などを使って忠実に再現されているので、江戸の昔にタイムスリップした気持ちに。
時代劇などに描かれる「佐渡送り」の罪人を使役した鉱山というイメージがありますが、実際の徳川幕府の金山経営は、はるかに合理的で、多いときには5万人が暮らしたというほどの、大規模な計画的な都市設計、港湾設計を行なっているのです。
安永7年(1778年)以降、幕府は都市の治安を攪乱する「無宿者」を狩り集めて佐渡へ送っています。
しかし、この「無宿者」を使った場所が水替人足(みずかえにんそく)。
水替人足は、坑道内の水を配する作業に従事する人足で、労働としては非常に過酷。
当初は全国に募集されて、農家の次男、三男などが高い給料につられてやってきました。
それに足して、勘定奉行の石谷清昌(元佐渡奉行)が生み出したのが無宿人の利用で、安永7年(1778年)から幕末までに送られた無宿人の総数は1874人で、意外に少ない感じがします。
しかも、徳川幕府は、「無宿は罪人にあらず」という考えで、給料も与えていたのです。
江戸時代、坑内での重労働は水上輪を使った排水作業
江戸時代の排水作業は承応2年(1653年)に、水学宗甫(すいがくそうほ=長崎仕込みの技で売った水からくりの名手)によって佐渡にもたらされた水上輪(すいじょうりん/竜樋)。
アルキメデスの考案した「アルキメデスの螺旋」の原理を応用したもので、長さ3m、直径30cmほどの細長い樋の中に巻貝のような螺旋状の翼を取り付け、人力で水を汲み上げるというもの。
罪を犯して島に流された罪人を「島流し」、判決を受けずに島に送られた無宿人を「島送り」(佐渡では江戸水替)と呼んでいました。
貴重な金銀の採掘に、犯罪者は使うことは不可で、しかも一般の金窄大工(採鉱夫)は、かなりの高給だったのです(粉塵が肺に入り、短命のため危険手当的な発想だったとも推測できます)。
結論をいえば、「佐渡金山では犯罪者を使っていない」のです。
さてさて、もうひとつの明治32年に開削された道遊坑は、日本の近代化をささえた坑道で、坑道を含め、トロッコ、機械工場、粗砕場などが現存。
しかも佐渡金山は、佐渡流刑の罪人が酷使された場所いうイメージが強いのですが、実は、この道遊坑が中心的な存在。
佐渡金山のシンボルである「道遊の割戸」(江戸時代の露天掘り跡)もこの道遊坑を抜けた先にあります。
取材協力/新潟県観光連盟、佐渡観光交流機構、ゴールデン佐渡
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