7世紀の朝鮮半島は高句麗(こうくり、コグリョ)、新羅(しらぎ、シルラ)、百済(くだら、ペクチェ)の三国時代でしたが、唐の強い干渉、侵略を受け、百済と高句麗は滅亡。日本(当時の呼称は倭国)に逃れた高句麗遺民は、武蔵国に高麗郡(後の埼玉県高麗郡)を生み、大陸の先進文化を古代の日本に伝えたのです。
7世紀、朝鮮半島の百済と高句麗の遺民が日本に亡命
660年、高句麗(こうくり、コグリョ)、新羅(しらぎ、シルラ)とともに朝鮮の三国時代を形成した百済(くだら、ペクチェ)が唐と新羅に攻められて滅亡し、668年にはさらに高句麗も連合軍によって滅亡。
教科書で学んだ白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)は、663年(天智2年)に朝鮮半島の白村江(現・錦江河口)で、百済復興を目指す日本・百済遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との間の戦争です。
当時、日本と百済は友好関係にありましたが、大化の改新の最中で、遣唐使で唐の先進文化をも吸収しようとしていたため、王権内でも親唐・新羅派と親百済派の対立が生まれています(後に天智天皇になる中大兄皇子がどちらの派に属したかは諸説あり定かでありません)。
百済、高句麗滅亡後に遺民は唐への移住などが強制されましたが、一部は日本に逃れ、さらには国内的事情もあって勝者の新羅からも祖国を離れる決意をする人が生まれて、数多くの人が海をわたって日本に逃れています。
王権に近い人や技術集団が多かったことで(なかには僧侶、百姓も含まれています)、大陸の先進文化が古代の日本に渡来することにもなったのです。
かつては「帰化人」とも称されていましたが、現在では海を越えて倭に渡って来た人々という意味から渡来人とするのが一般的です。
この渡来人たちは、当初は朝鮮半島に近い九州や山陰、ヤマト王権のある近畿地方などの西日本に上陸し定住しています。
日本が統一国家としての体をなしたとされるのが天武天皇、持統天皇の治世ですが(倭国から日本に、大王から天皇へと呼称も変化)、『日本書紀』にも、天武13年(684年)、百済の遺民23人が武蔵国へ、持統天皇元年(687年)、新羅の遺民22人が武蔵国へ、持統天皇4年(690年)、新羅の韓奈末許満(かんなまのこま)ら12人が武蔵国へ移住と記されています。
武蔵国に遺民を移住させて高麗郡、新羅郡が誕生!
こうした古代、日本の律令制度の始まりの時代に、摂津国(大阪府・兵庫県)には百済の遺民を集めた百済郡、遠い武蔵国には高句麗と新羅の遺民を主にした高麗郡、新羅郡を築いています。
当時の日本の王権は、唐に与して百済を滅亡へと追いやった新羅は「野蛮な国」という位置づけだったため、時の太政官は、王権と密接な関係にあった東国に新羅人を配置し、開拓に従事させようと考えたのかもしれません(実際には新羅は高句麗・百済を滅ぼし朝鮮半島を統一した強国なので、ライバル視や危機感もありました)。
唐への脅威を感じつつも、アジアのナンバー2としての生き残りをかけた当時の王権は、唐を真似ての中央集権、律令体制が始まった時代。
東北はまだ辺境の地で、蝦夷(えみし)の支配地でもあったため、その前線にもあたる東国・武蔵に高句麗と新羅の遺民を置き、王権に近い摂津に信頼できる百済の遺民を配置したのです。
霊亀2年(716年)、駿河など7ヶ国に居住していた高句麗系渡来人1799人を武蔵国に移して、高麗郡(こまぐん)を立郡。
初代郡司には高麗若光(こまのじゃっこう)が就任していますが、高句麗最後の王となった宝蔵王(ほうぞうおう)の息子とされています。
新羅郡(しらぎぐん=後の新座郡)が置かれたのは天平宝字2年(758年)と40年以上も後ですが、朝鮮半島にはまだ新羅国があったため、その新羅を亡命政権だと刺激しないようにという配慮があったからだとも推測できます。
こうして誕生した高麗郡は、現在の日高市、鶴ヶ島市、入間川以西の川越市、狭山市、そして入間市、飯能市の一部で、とくに日高市には高麗王若光を主祭神としてその歴史を今に伝える高麗神社(こまじんじゃ)が建っています。
その社前には朝鮮半島の道祖神的な存在、将軍標も。
新羅郡は、後の新座郡(にいくらぐん)で、新座市、和光市、朝霞市の全域、志木市、戸田市の一部、さらには練馬区や西東京市の一部にまで広がっていました。
残念ながら新羅の遺民は数も少なく、遺構的なものは残されていません。
古代、埼玉は帰化人の先進文化が花開いていた | |
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