島根県益田市にある時宗の寺、萬福寺(まんぷくじ)。雪舟庭園があることで知られ、庭園は国の史跡及び名勝に指定されています。雪舟は文明年間(1469年~1487年)、医光寺の第7世住職となり、庭園を手掛けるが、その時にあわせて万福寺庭園も作庭しています。本堂は、国の重要文化財。
雪舟が作庭した庭園を観賞
応安7年(1374年)、益田七尾城11代の益田兼見(ますだかねはる)が石見国中州浦の安福寺を現在地に移し、萬福寺と改めて益田氏の菩提寺としたのが始まり。
益田七尾城15代・益田兼尭(ますだかねたか)が山口に逗留していた雪舟を招聘(益田氏は大内氏に臣従)。
雪舟は、大内氏の船で明国に渡るため28代・大内教弘の頃山口を訪れ、明国において禅学・画技を修めて帰国後、応仁の乱で交配した京を避けて山口に暮らしていたのです(29代・大内政弘の時代に常栄寺雪舟庭を築いています)。
万福寺の寺院様式の庭園は、往時のままに残されており、巨大な石組群などから画聖・雪舟の深遠な世界を知ることができます。
「雪舟庭園」として国の史跡及び名勝に指定。
京都府舞鶴市の金剛院に残る「鶴亀の庭」は、細川幽斎が天正15年(1587年)、豊臣秀吉の命による九州平定・島津征伐で九州に出向いた際に、萬福寺に寄り道して雪舟庭園を参考にしたものと推測されています(戦国時代にも雪舟庭園は有名だったことに)。
本堂は鎌倉時代の手法を伝える一重寄棟造りで、国の重要文化財。
幕末の慶応2年(1866年)、益田戦争(第二次長州征討の石州口の戦い=徳川幕府軍の長州征討)の際には浜田藩の精鋭が陣取り、兵火のために総門を焼失。
また本堂の柱には大村益次郎が石州口の参謀を務めた長州軍(指揮役は清末藩主・毛利元純)の弾痕(だんこん)が残されています。
浄土教の教えを表す『絹本著色二河白道図』(国の重要文化財/浄土教における極楽往生を願う信心をたとえたもので、掛け軸に絵を描いて説法を行ないました)、南蛮貿易によりもたらされた「華南三彩壺」(中国華南地方で焼成された三彩釉の陶磁器)、旧書院襖絵(島根県の有形文化財)など、中世から近世の益田の文化を伝える文化財が残されています。
雪舟終焉の地は益田
雪舟最期の地は石見国・益田の大喜庵とされ、雪舟の墓が残されています(益田氏20代・益田元祥の記した『牛庵一代御奉公之覚書』にも益田で没と記されています)。
雪舟が益田に滞在したのは、応仁の乱後の幕府の権威低下、荘園制度の崩壊、諸国の混乱を避けて平穏な土地で暮らしたかったからだと推測できます。
さらに、日本海を通じた交易・交流による石見国と海外(朝鮮、中国、東南アジアなど)とのつながりも雪舟を引き止める魅力だったのかもしれません(益田氏は交易も重視していました)。
萬福寺|益田市 | |
名称 | 萬福寺|益田市/まんぷくじ|ますだし |
所在地 | 島根県益田市東町25-33 |
関連HP | 益田市観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR益田駅から石見交通バス医光寺行きで8分、折戸下車、徒歩5分 |
ドライブで | 中国自動車道六日市ICから約58km |
駐車場 | 16台/無料 |
問い合わせ | 萬福寺 TEL:0856-22-0302 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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