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板垣退助の墓

板垣退助の墓

東京都品川区北品川3丁目、高源院墓地にあるのが、板垣退助の墓。土佐藩・山内容堂の側用人(そばようにん)として頭角を表し、戊辰戦争でも活躍した板垣退助は、維新後に自由民権運動を推進、第2次伊藤内閣、大隈内閣で内務大臣などを務めた後、政界を引退し、大正8年7月16日、肺炎のため病没。

北品川にある高源院墓地に板垣退助が眠る

明治14年、10年後の国会開設に向け、自由党を結成し総理(党首)となった板垣退助は、明治15年4月6日、遊説中の岐阜で暴漢に襲われ、その際に発した「板垣死すとも自由は死せず」の名言で有名ですが、負傷だけですみ、明治29年に第2次伊藤内閣の内務大臣、明治31年にも大隈内閣の内務大臣に就任。
明治33年、伊藤博文を総裁とする立憲政友会が結成されたのを契機に、政界を引退し、華族の世襲禁止を問う活動など、社会事業に尽力しています。

大正8年7月16日、肺炎のため没(法名は邦光院殿賢徳道圓大居士)。
享年83(満82歳)。
「一代華族論」という生前の主張から、息子の板垣鉾太郎(いたがきほこたろう)は自ら廃嫡し、華族の栄典を返上しています。

「人は死んだら終わりだと言う、しかし私はそうは思わない。志ある人々が私の墓を前にして、世の矛盾に怒り、それを糾(ただ)さんと、世のために働いてくれるのなら、私の死は終わりではない」(板垣退助)

高源院は関東大震災で荒廃し、昭和14年に世田谷(現・世田谷区北烏山4丁目)へ移転しましたが、墓所はそのまま残されています(高源院の飛び地的な寺域)。
品川神社参道の階段または坂を登り、社殿の右側から裏手へ回った先にあります。

明治維新に勲功のあった土佐藩出身の伯爵としては、板垣退助、逓信大臣、農商務大臣を務めた後藤象二郎(ごとうしょうじろう)、岩倉使節団の一員でもあり、明治天皇にも信任された佐々木高行(ささきたかゆき)が「土佐三伯」と称されています。
このうち、板垣退助、後藤象二郎は征韓論に敗れて(明治六年政変)いったんは下野していますが、佐々木高行は政府に留まっています。

板垣退助の墓
名称 板垣退助の墓/いたがきたいすけのはか
所在地 東京都品川区北品川3-7-15
電車・バスで 京浜急行新馬場駅から徒歩3分。JR品川駅から徒歩15分
駐車場 なし/周辺の有料駐車場を利用
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

品川神社

文治3年(1187年)、源頼朝が安房国の洲崎神社(すさきじんじゃ=館山市洲崎)から、海上交通安全と、祈願成就の守護神として、天比理乃咩命(あまのひりのめのみこと)を勧請して祀り、品川大明神としたのが始まりという古社、品川神社。江戸の東海道側

板垣退助遭難の地碑・板垣退助銅像

岐阜県岐阜市大宮町1丁目、金華山(岐阜城)麓の岐阜公園の一角に立つのが、板垣退助遭難の地碑・板垣退助銅像。明治15年4月6日、自由党総理・板垣退助が岐阜中教院(ぎふちゅうきょういん)での演説を終え、会場を出たところで暴漢に襲われ、「板垣死す

板垣退助の墓(高知)

高知県高知市薊野東町、高知・板垣山墓所にあるのが、板垣退助の墓。大正8年7月16日に死去した板垣退助は、東京・品川神社裏の旧高源院に埋葬されましたが、分骨が故郷の高知に埋葬され、高知の墓(分祀墓)の横には3番目の妻・鈴や三男・板垣孫三郎ら乾

高知城・板垣退助像

土佐出身の板垣退助は、自由民権運動の指導者のひとりで第2次伊藤内閣の内相。明治維新以前は土佐藩の藩士だったこともあって、板垣退助像が高知城の追手門をくぐってすぐの石段の上り口に立っています。天守のビューポイントに立つ明治維新の立役者の像[s

 

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