板垣退助の墓(高知)

板垣退助の墓(高知)

高知県高知市薊野東町、高知・板垣山墓所にあるのが、板垣退助の墓。大正8年7月16日に死去した板垣退助は、東京・品川神社裏の旧高源院に埋葬されましたが、分骨が故郷の高知に埋葬され、高知の墓(分祀墓)の横には3番目の妻・鈴や三男・板垣孫三郎ら乾家の墓(乾姓を板垣姓に変えたのは戊辰戦争時)も並んでいます。

郷里・乾家の墓所にある板垣退助の分祀墓

天保8年(1837年)、高知城下中島町(現・高知県高知市本町、高野寺)に土佐藩上士(馬廻格・300石)・乾正成の嫡男として生誕。
幕末には土佐藩を代表する尊王攘夷の志士となり、西郷隆盛ら薩摩藩側と薩土討幕の密約を締結(前土佐藩主・山内容堂は討幕の密約を了承)。
戊辰戦争では、近藤勇率いる甲陽鎮撫隊より先に甲府城を奪って戦いを有利に展開、大名行列のように甲府を目指した近藤勇らを甲州勝沼で迎え撃ち(甲州勝沼の戦い)、撃退しています。
その後、会津を攻略するなど活躍していますが、板垣退助率いる官軍の紳士的で統率のとれた態度には通過した人からも高い評価を受け、その後の自由党人気につながっています。

明治4年の岩倉具視らの外遊の際には西郷隆盛とともに留守政府で、近代化を断行。
西郷隆盛とともに征韓論を唱えますが、欧米視察から帰国した岩倉具視らに抑えられ、西郷とともに下野しています。
明治8年に参議として復帰し、明治14年、自由党を結成し総理(党首)に。
自由民権運動を進め、自由主義は尊皇主義と同一であるとして自由民権の意義を説いています。

明治15年4月6日、岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷し、この時の言葉が「吾死スルトモ自由ハ死セン」(板垣死すとも自由は死せず)です。
明治20年、戊辰戦争の武勲と明治維新の功労で伯爵となることができましたが、特権階級になるために討幕を志したわけではなく、明治維新の精神に矛盾するとして栄典をいったんは辞退しています。

日本初の政党内閣である第1次大隈内閣に内務大臣として入閣し、隈板内閣(わいはんないかく)と呼ばれるなど憲政にもその名を刻み、明治33年に政界を引退。
大正8年7月16日、肺炎のため死去(満82歳)。
菩提寺は高知・高野寺(こうやじ)で、生誕の地と同じです。

板垣退助の墓(高知)
名称 板垣退助の墓(高知)/いたがきたいすけのはか(高知)
所在地 高知県高知市薊野東町14
関連HP 高知市公式ホームページ
電車・バスで JR薊野駅から徒歩15分
ドライブで 高知自動車道高知ICからすぐ
駐車場 あり/無料
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

高知城・板垣退助像

土佐出身の板垣退助は、自由民権運動の指導者のひとりで第2次伊藤内閣の内相。明治維新以前は土佐藩の藩士だったこともあって、板垣退助像が高知城の追手門をくぐってすぐの石段の上り口に立っています。天守のビューポイントに立つ明治維新の立役者の像[s

板垣退助の墓

板垣退助の墓

東京都品川区北品川3丁目、高源院墓地にあるのが、板垣退助の墓。土佐藩・山内容堂の側用人(そばようにん)として頭角を表し、戊辰戦争でも活躍した板垣退助は、維新後に自由民権運動を推進、第2次伊藤内閣、大隈内閣で内務大臣などを務めた後、政界を引退

 

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