大久保利通誕生地

大久保利通誕生地

鹿児島県鹿児島市高麗町、ナポリ通り沿い、甲突橋の西にあるのが、大久保利通誕生地。同じ薩摩藩出身で、ともに維新の三傑に数えられる西郷隆盛の生誕地が園地化され、立派な石碑が立っているのに比べ、大久保利通の生誕地は、駐車場の片隅に、標石が立つのみという簡素さです。

維新の三傑とは思えないほど質素な石柱が立つのみ

大久保利通は、文政13年8月10日(1830年9月26日)、薩摩国鹿児島城下高麗町で、薩摩藩士・大久保利世(おおくぼとしよ)と福の長男として生誕。
父・大久保利世は下級藩士でしたが、沖永良部島代官付役として沖永良部島に赴任していますが、鹿児島に帰任後に利通が生まれています。

天保8年(1837年)4月26日、再び沖永良部代官付役となったため、沖永良部島に渡り、その後、琉球館付役となったため琉球館内に引っ越しため、長男・利通を下加治屋町の義姉に預けています(その場所には、「大久保利通生い立ちの地」として誕生地よりも立派な石碑が立っています)。

大久保利世は、薩摩藩内のお由羅騒動(おゆらそうどう=島津久光を藩主にしようとする派と嫡子・島津斉彬の藩主にという家臣の対立)に巻き込まれ、嘉永3年(1850年)、喜界島に流され、20歳の大久保利通も謹慎処分となりますが、島津斉彬が藩主となると謹慎を解かれています。

公家の岩倉具視らとともに公武合体路線を指向し、王政復古に貢献。
維新後は、版籍奉還、廃藩置県などに尽力。
明治4年には、岩倉使節団の副使として外遊し、帰国後に留守政府の西郷隆盛と対立、征韓論を唱える朋友・西郷隆盛は下野しています(明治六年政変)。
明治10年の西南戦争では京都で戦争を指揮していますが、明治11年5月14日、東京府麹町区麹町紀尾井町清水谷(現・東京都千代田区紀尾井町清水谷)で、征韓論に共鳴する石川県士族・島田一郎ら不平士族6人に暗殺(紀尾井坂の変)されています。

地元・鹿児島では「西郷どんの敵(かたき)」とされ、没後100年となる昭和54年まで銅像も建立されませんでした。

大久保利通誕生地
名称 大久保利通誕生地/おおくぼとしみちたんじょうち
所在地 鹿児島県鹿児島市高麗町3-1
関連HP 鹿児島観光コンベンション協会公式ホームページ
電車・バスで JR鹿児島中央駅から徒歩10分
ドライブで 九州自動車道鹿児島ICから約4km
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
西郷隆盛生誕の地

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