土津神社

土津神社

福島県耶麻郡猪苗代町にある神社で、会津藩祖・保科正之(ほしなまさゆき)を祀るのが土津神社(はにつじんじゃ)。寛文12年(1672年)、保科正之が没すると遺言により磐椅神社(いわはしじんじゃ)の西方に葬られ、延宝3年(1675年)、その保科正之墓所に造営された神社が土津神社です。

会津藩初代藩主・保科正之を祀る

土津(はにつ)は、生前の寛文11年(1671年)、吉田神道(室町時代に京・吉田神社の神職・吉田兼倶によって大成された神道の流派で、仏教主導で神仏習合の両部神道、山王神道を否定)の吉川惟足(よしかわこれたり)からもらった保科正之の霊神号。

名君として讃えられる保科正之は、死後は磐梯山を御神体とする磐椅神社の末社となって、神に奉仕することを考えていたのだとか(「我死せば磐椅神社の末社となりて永く奉仕せん」)。

江戸時代初期には、松平家ゆえに神式の、埋葬が幕府から許され、さらに日光東照宮のような絢爛豪華な社殿を建立することができたのです。
保科正之の墓所は、土津神社の奥の院ということに。

慶応4年(1868年)の戊辰戦争時、猪苗代城代・高橋権大夫の命で火が放たれ、往時の建物は焼失しています。
現存する社殿は明治13年の再建。
会津藩主松平家墓所として国の史跡になっています。

紅葉の名所としても知られ、紅葉の見頃は例年10月下旬~11月上旬。

名君といわれる保科正之は将軍「ご落胤」!

土津神社

保科正之は、2代将軍・徳川秀忠の4男。
徳川秀忠が駿府の鷹狩に出向いた際の、将軍「ご落胤」(ごらくいん=私生児)。
つまりは家康の孫ということに。

幼少時には、「ご落胤」であることは秘され、武田信玄の次女、見性院に預けられ、見性院の縁から元和3年(1617年)、信濃高遠藩主・保科正光の養子となり、高遠藩主に。

3代将軍・徳川家光に異母弟として取り立てられて、会津藩23万石の藩主へと出世し、会津松平家の初代となるのです。

徳川家光の死後は、4代将軍・徳川家綱の輔佐役(大政参与)として文治政治を推進、明暦の大火後の庶民救済に手腕を発揮し、玉川上水開削などの土木工事にも才をみせた名君です。
一方、会津藩の藩政でも漆の木の保護育成に尽力するなど(会津塗の興隆につながります)、藩の基礎を固めています。

「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在」というのは保科正之の遺した家訓で、これが戊辰戦争時に旧幕府軍として最後まで抵抗し、白虎隊の悲劇を生む要因にもなっています。

土津神社
土津神社
名称 土津神社/はにつじんじゃ
所在地 福島県耶麻郡猪苗代町見禰山1
関連HP 土津神社公式ホームページ
電車・バスで JR猪苗代駅からタクシーで10分
ドライブで 磐越自動車道猪苗代磐梯高原ICから約5.2km
駐車場 15台/無料
問い合わせ 土津神社 TEL:0242-62-2160
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
松平家廟所

松平家廟所

福島県会津若松市東山町院内の山中(東山温泉の入口)に広がる会津藩主だだった会津松平家の墓所が松平家廟所(まつだいらけびょうしょ)。「院内御廟」(いんないごびょう)とも呼ばれています。藩祖・保科正之(ほしなまさゆき)の嫡子・保科正頼が亡くなっ

 

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