じょうべのま遺跡

じょうべのま遺跡

富山県入善町の黒部川の右岸扇状地末端、海岸線に接して展開する遺跡が、じょうべのま遺跡。平安時代初期に栄えた荘園の管理所(荘所)跡と推測される遺跡(国の史跡)で、一帯は史跡公園として整備されています。現在のところ、東大寺領丈部荘(はせつかべしょう)、西大寺領佐味荘(さみしょう)の荘所が有力視されています。

平安時代の荘園の管理所と推測される遺跡

じょうべのま遺跡からは、平安時代の前期、鎌倉時代前期の十数棟の掘立柱建物跡と土師器や須恵器、木製品、さらに底の部分に「田中」「寺」「西庄」と墨(すみ)で記された墨書土器(ぼくしょどき)、「丈部吉椎丸上白米五斗(はせつかべきしまろじょうはくまい)」と記された木簡、緑釉(りょくゆう)・灰釉陶器、風字硯(ふうじけん=その形が「風」という字に似ている全国でも数少ない硯)などが出土しています。
「丈部吉椎丸上白米五斗」は、丈部吉椎丸(はせつかべきしまろ)という人が白米五斗(当時の年料舂米1俵)を上納したことを表わす付札です。

奈良時代以降、この地(越中国新川郡)では、東大寺領丈部荘、東大寺領大荊荘(おおやぶしょう)、西大寺領の佐味荘があり(当時東大寺は丈部・大荊、西大寺は佐味に荘園を所有し、一帯の開墾を進めていました)、平安時代の末から鎌倉時代にかけては東大寺領入善荘(にゅうぜんしょう)が置かれたことが文献などで確認できます。

また、遺跡の北側で幅30mにもおよぶ旧河川跡も発見され、開墾以前には湧水地には「杉沢の沢スギ」のような杉林が広がっていたと推測できます。

越中10ヶ所を開墾・領有した東大寺の荘園

荘とはもとは別荘の意。
政治権力を有する貴族や寺社が、遠く離れた地に私有地を所有し、現地の経営のために倉庫をふくむ事務所(荘所・庄所)を設け、荘官を置いて経営にあたらせました。
地方官として派遣された国司、その下僚が、在任中に農民を使用して開墾し、都に戻っても昇進が望めない場合には私有地に土着して豪族化するということも生まれています。
天平勝宝元年(749年)に、東大寺、西大寺などの大寺が開墾した田(墾田)の私有が認められた際、東大寺が開墾して私有田にすることを許されたのは4000町でした。
この田地を確保するため、東大寺占墾地使僧・平栄は越中国(富山県)、越前国(福井県)に派遣され、国司や郡司の協力を得て、新たに開墾する土地を探したのです。
こうして越中国や越前国には東大寺の荘園が築かれ、そのうち越中国には現在の高岡市などに東大寺領が10ヶ所も保有されたのです(その墾田地の地図「射水郡須加野地開田図」、「射水郡鹿田村墾田地」などが正倉院などに17枚現存しています)。

じょうべのま遺跡
名称 じょうべのま遺跡/じょうべのまいせき
所在地 富山県下新川郡入善町田中790
関連HP 入善町公式ホームページ
電車・バスで あいの風とやま鉄道入善駅からタクシーで5分
ドライブで 北陸自動車道入善スマートICから約5km
問い合わせ 入善町教育委員会 TEL:0765-72-1100
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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