東海道本線が、関ヶ原(中山道)回りなのは、なぜ!?

東海道本線は、名古屋〜京都間で、本来の東海道である鈴鹿経由ではなく、関ヶ原を越え、琵琶湖の東を京都へと走っているのはなぜでしょう。本来の東海道ともいえる名古屋〜亀山は関西本線で、東海道本線ではありません。岐阜〜関ヶ原〜京都は、なぜか中山道をトレースしているのです。なぜなのでしょう?

計画段階では「中山道回り」だったことが原因

東海道本線という割には、さりげなく岐阜から以西は中山道沿いに敷設されています。
しかも本来の東海道である関西本線の名古屋〜亀山は、もともと関西鉄道という私鉄の敷設です。

なぜ名古屋〜岐阜(脇街道である美濃路​​ )、岐阜〜京都(中山道)というルートをたどったかといえば、明治初期の鉄道敷設計画まで遡ります。
維新直後の明治2年11月、明治新政府は早くも鉄道建設を廟議決定をしています。
東京と維新前の首都である京都、つまりは東西両京を結ぶ鉄道が真っ先に横浜居留地に駐留する諸外国からの要望もあり開港地である横浜への鉄道を計画、まずは新橋〜横浜(横浜港に近い現在の桜木町)に明治5年10月14日に鉄道を開業します。
しかし、こちらは計画上はあくまで支線としての扱いでした。
明治7年、大阪〜神戸間が開通しますが、こちらも神戸が開港地で居留地があったから、先行しての開業です。

東京と京都を結ぶ幹線鉄道の計画に関しては、東海道沿いに走らせるのか、中山道沿いに走らせるのか意見が分かれ、すでに貿易港などがある東海道沿いよりも、開発の遅れた中山道沿いに走らせるべきだということになったのです。
海岸沿いだと艦砲射撃を受けやすいという軍事的な配慮があったのかもしれません。

明治16年5月1日に関ケ原駅と琵琶湖湖畔の長浜駅とを結ぶ鉄道が開業しますが、これは中山道鉄道として計画されたものです。
明治13年7月15日には京都〜大津(現在の浜大津駅=大津港)を結ぶ鉄道が開業。
明治政府は、西の神戸港、あるいは日本海側の敦賀港(当時、日本の物流は太平洋側よりも日本海側の北前船・西廻り航路の方が主体でした)へと鉄道を敷設する必要性に迫られていたこともあって、まずは関ケ原駅〜長浜駅を開業させ、長浜で大津までの琵琶湖を走る鉄道連絡船に連絡したのです。

明治17年には金ケ崎(敦賀港)まで鉄道が延び(現在の北陸本線)、日本海の物流ルートとの接点が生まれました。

当初、中山道鉄道として計画された東西を結ぶ幹線鉄道ですが、その後、山岳ルートを通すことで工事の困難さ、工費の増大が懸念され、東海道沿いに走らせることに計画が変更。
すでに工事が始まっていた岐阜〜米原間はそのまま東海道線として利用したというのが真相です。
明治22年に米原〜大津を結ぶ線路が敷設されるまでは、琵琶湖の湖上に日本初となる鉄道連絡船が走っていましたが、これも中山道ルートの代行といえるのです。

明治政府の中山道ルートから東海道ルートへの変更を受け、すでに工事が進んでいた岐阜〜京都間は、幹線ルートとして使用したことで、「中山道を東海道本線が走る」という事態が生まれました。
関ヶ原というと東海道線、東海道新幹線のイメージが強い場所ですが、歴史的には東山道(とうざんどう=古代から中世にかけての五畿七道のひとつで、近江から東国への山岳ルート)、そして中山道(近世の街道)のルート沿いです。

東海道本線が、関ヶ原(中山道)回りなのは、なぜ!?
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