【地図を旅する】vol.35  銀座のルーツは静岡に!

日本一地価が高いのは、東京都中央区銀座4丁目の「山野楽器銀座本店」その銀座ですが、江戸幕府が設置した銀地金の鋳造所がルーツの地名。駿府城下(静岡県静岡市)の両替町にあった銀座が、江戸に移転して、新両替町となったのが東京・銀座なので、静岡がルーツ(さらにそれ以前は伏見、京)ということに。

家康の大御所政治にとって、重要だったのが金融支配

徳川家康は、関ヶ原合戦から間もない慶長6年(1601年)、京・伏見の伏見城下に貨幣鋳造所を設立。
諸国の銀山から産出される灰吹銀(灰吹法により製錬された銀地金、山出し銀)を、幕府が鋳造した丁銀(ちょうぎん=江戸時代の銀貨で、重さを基準に取引される秤量貨幣)に取り替える場所ということから、両替町とも称されました。
当時の国内は、銀の生産が多い銀本位制だったことを背景に、家康は銀による統一貨幣を鋳造し、経済の全国的な支配に乗り出したのです。

その伏見銀座は、慶長13年(1608年)、京に移され、京に両替町が誕生しています。

慶長10年(1605年)、家康は秀忠に将軍職を譲り、温暖な駿府(静岡市)を隠居所に定めます。
近世的な城郭として駿府城を築き慶長12年(1607年)には駿府城に移っていますが、引っ越す前の慶長11年(1606年)には京・両替町から駿府城の南に銀座を移し、新たに両替町を築いています。

大御所政治にとって、金融支配がいかに重要だったかがわかるエピソードで、鋳造された分銅銀、丁銀は、駿府城の蓄財にも回されたのです。
大坂城(現・大阪城)には豊臣秀頼が陣取り、豊臣恩顧の武将たちもいたことから、軍資金としても銀を蓄えることは重要だったのでしょう。

慶長17年(1612年)、銀座は駿府から江戸に移され、江戸に新両替町と呼ばれる場所が生まれますが、これが現在の東京・銀座です。
江戸にはすでに日本橋に金座があり(江戸時代には東日本は金本位制、西日本は銀本位制でした)両替町と呼び習わされていたため、銀座の置かれる京橋一帯は新両替町となったのです。

銀座役所は現在の東京都中央区銀座2丁目にありました。
その江戸の銀座も、組織改革を受けて寛政12年(1800年)、日本橋蛎殻町(にほんばしかきがらちょう)に移転(「蛎殻銀座」)、明治2年に造幣局が新設されるまでの69年間、日本橋で銀の鋳造を行なっていました。

日本を代表する繁華街、銀座という名は、200年という長きに渡って銀座があったことから付いた名で、そのルーツは駿府に、さらに辿れば、京都、伏見へと繋がっていくのです。

【地図を旅する】vol.35  銀座のルーツは静岡に!
所在地静岡県静岡市葵区両替町
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ラジオ・テレビレジャー記者会会員/旅ソムリエ。 旅の手帖編集部を経て、まっぷるマガジン地域版の立ち上げ、編集。昭文社ガイドブックのシリーズ企画立案、編集を行なう。その後、ソフトバンクでウエブと連動の旅行雑誌等を制作、出版。愛知万博公式ガイドブックを制作。以降、旅のウエブ、宿泊サイトにコンテンツ提供、カーナビ、ポータルサイトなどマルチメディアの編集に移行。

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