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伯耆国分寺跡

伯耆国分寺跡

鳥取県倉吉市国分寺、天平 13 年(741年)、聖武天皇の詔で伯耆国(ほうきのくに=現在の鳥取県中西部)に建立された国分僧寺(金光明四天王護国之寺)の跡が伯耆国分寺跡。国府川左岸の丘陵上に立地し、溝と土塁(南側は溝と築地塀)が巡らせれた東西182m、南北160m、2.9haが寺域です。

伯耆国分寺は、伯耆国庁の東に!

南門、金堂、講堂が一直線になっていて、太政官符や宣旨を編纂した『続左丞抄』(ぞくさじょうしょう)には天暦2年(948年)に火災で焼失したと記されている通り、出土品からも火災のあったことが判明しています。
多量の瓦が出土していますが、創建時のものと推測できる軒丸瓦、軒平瓦は伯耆国分寺特有の文様が描かれています。
伯耆国分寺跡一帯は、国分寺歴史公園として、北東側の法華寺畑遺跡(伯耆国分尼寺跡とも)と一体化して整備され、北側には霊亀2年(716年)に伯耆国国守に赴任した万葉歌人・山上憶良(やまのうえのおくら)の歌碑「瓜食めば子ども思ほゆ 栗食めばまして偲はゆ いづくより来たりしものそ まなかひにもとなかかりて 安眠しなさぬ」が立っています。
伯耆国分寺跡(国分寺歴史公園)は法華寺畑遺跡とともに日本の歴史公園100選にも選定されています。

山上憶良は、57歳で初めての国司として、伯耆守に任命され、5年間を伯耆の地で過ごしたとされていますが、残念ながら伯耆国での歌は、確認されていません。
ただし、伯耆国赴任中の生活が後の歌作りに影響を与えていたと推測され、山上憶良赴任1400年という節目に、歌碑が建立されたのです。

伯耆国分寺跡の西側には発掘調査で伯耆国庁跡と確定した遺跡、東北側には国分尼寺跡とも推測される法華寺畑遺跡があり、一帯が古代の伯耆国の中心だったことがわかります。

伯耆国分寺跡
名称 伯耆国分寺跡/ほうきこくぶんじあと
所在地 鳥取県倉吉市国府、国分寺
関連HP 倉吉観光MICE協会公式ホームページ
電車・バスで JR倉吉駅からバス農高線で25分、国府下車、徒歩10分
ドライブで 北条湯原道路倉吉西ICから約2km
問い合わせ 倉吉市教育委員会文化財課 TEL: 0858-22-4419
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

伯耆国庁跡(伯耆国府跡)

鳥取県倉吉市、国分寺地区にある、律令時代の伯耆国(ほうきのくに=現在の鳥取県中西部)の国庁の跡が伯耆国庁跡。昭和44年、柱穴状の落ち込み群が確認され、昭和48年〜昭和53年の発掘調査で、伯耆国庁の遺構であることが判明しています。伯耆国府跡と

法華寺畑遺跡(伯耆国府跡)

鳥取県倉吉市国府、伯耆国分寺跡の北東にあるのが法華寺畑遺跡(ほっけじばたいせき)。伯耆国庁跡からは北東400m、伯耆国分寺跡には隣接する遺跡で、伯耆国分尼寺の跡とも推測されています。伯耆国府跡として国の史跡になっているほか、伯耆国分寺跡とと

不入岡遺跡(伯耆国府跡)

鳥取県倉吉市不入岡にある、伯耆国の国府に関連する遺構が、不入岡遺跡(ふにおかいせき)。平成5年に溝や板塀によって区画された大規模な建物群が発掘され、話題に。伯耆国の国府に関連した遺構として、伯耆国庁跡、法華寺畑遺跡とともに伯耆国府跡として国

 

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