愛媛県今治市の市街地に見事な天守がそびえ立つ今治城。築城の名手、藤堂高虎(とうどうたかとら)が築いた城で、瀬戸内海の海水を巧みに堀に取り入れ、日本三大水城に数えられています。そのため、登城する城ファンも多いのですが、実はこの今治城、天守が存在しなかった可能性もあるのです。
築城の名手、藤堂高虎が5層の層塔型天守を築いた!?

藤堂高虎は、『豊臣兄弟!』で注目を浴びた豊臣秀長に仕えるようになって出世、豊臣秀長のもとでは秀吉の中国攻め、賤ヶ岳の戦い、紀州征伐などに従軍しています。
和歌山城の築城では築城奉行を担って、初の城つくりを行なっています。
秀吉の名で聚楽第(じゅらくだい=京にあった秀吉の居城)の内部に家康の屋敷を築いたのも藤堂高虎ですが、この時に、警備上の弱点を見抜き、独断でしかも自腹で設計変更をしています(後に家康が感心した経緯も)。
慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が没すると恩顧の大名だった藤堂高虎は、徳川家康に急接近。
関ヶ原合戦後の慶長7年(1602年)、今治12万石が加増され、今治城を築いています。
藤堂高虎は、それまでの望楼型天守が地震や強風に弱いことから、層塔型天守を考案し、各地の城に採用しているので、自身の今治城にも層塔型天守をテスト的に築いた可能性もあります。
今治市文化振興課は、「藤堂高虎が五重天守を創建したと伝わり、形状は当時最新鋭の層塔型であったと考えられます」としていて、層塔型の天守を構築したという説を採用しています。
江戸時代に記された藤堂家の『宗国史』(そうこくし)にも「城中に五層の高楼を建て」とあり、その論証となっているのです。
昭和55年、なぜか望楼型天守を建築

さてさて藤堂高虎が建てた天守ですが、慶長15年(1610年)、藤堂高虎の手で解体され、亀山城(丹波国)の天下普請を受けて家康に献上して亀山城へ移築されたというのが定説。
つまり、もし天守があったとしても数年ということになるのです。
しかも残念なことに天守台の遺構も見つかっておらず、天守台を築かずに天守を建てたのかという疑問も残されているのです。
藤堂家の『宗国史』には、「公督役、公今治城天守楼を献じ、之を亀山に建つ」とあるので、亀山城移設にはかなりの信憑性があります。
藤堂家は、寛永12年(1635年)、高虎を継いだ養子・藤堂高吉(とうどうたかよし)の代に伊勢に転封となり、代わって松平定房(まつだいらさだふさ)が入城。
以降、明治維新に至るまでは久松松平氏の居城となっています。
現在の天守は、昭和55年、鉄筋コンクリートで築かれた5層6階で、本丸北隅櫓の場所に建っています。
しかもそのスタイルは、藤堂高虎の目指した層塔型ではなく、なんと望楼型。
亀山城天守の外観を参考にともいわれますが、亀山城は層塔型で外観も大きく異なるオリジナルです。
設計は、建築史家で、和歌山城、会津若松城、熊本城などの復元設計を担った藤岡通規(ふじおかみちのり)。
なぜ、専門家が望楼型を選んだのかは、今も謎ですが、巨大な入母屋破風など、観光的な見栄えを優先したとも推測できます。
| 確実に誤解を生む! まさかの天守閣(19)今治城|愛媛県 | |
| 名称 | 今治城/いまばりじょう |
| 所在地 | 愛媛県今治市通町3-1-3 |
| 電車・バスで | JR今治駅からせとうちバス今治営業所行きで7分、今治城前下車 |
| ドライブで | 西瀬戸自動車道今治ICから約4.6km |
| 駐車場 | 41台/有料 |
| 問い合わせ | 今治城 TEL:0898-31-9233/FAX:0898-31-9235 |
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