七福神めぐりは、寺社に祀られる七福神の神々の力をもって福運を授かろうとする民衆の願い。新春に巡拝すれば「七難即滅(しちなんそくめつ)、 七福即生(しちふくそくしょう)」(難を滅ぼし福を呼ぶ)極まりなしといわれています。そんな七福神めぐりのルーツが京都にあることは、意外に知られていません。
七福神のうち、布袋尊は実在した!?
日本最古の七福神めぐりといわれるのが、京都の『都七福神まいり』、そして江戸で最初の七福神が『谷中七福神』(やなかしちふくじん)です。
このふたつの七福神を取材することで、見えてきたのが七福神巡りのルーツです。
京都の広範囲に展開する『都七福神まいり』の7社寺のうちでもっとも南に位置するのが黄檗山萬福寺。
中国明朝時代の臨済宗を代表する名僧・隠元(いんげん)は、日本からの度重なる招請に応じ、弟子20名を伴って、来日。
徳川幕府の崇敬を得て、寛文元年(1661年)に宇治に開いたのが黄檗宗の寺黄檗山萬福寺です(中国風の伽藍で知られ、現在もお経は中国語、精進料理も中華風の「普茶料理」です)。
実は、七福神誕生のキーとなるのが、この黄檗山萬福寺の天王殿に安置される弥勒菩薩像。
福々たる弥勒菩薩像は、わざわざ隠元が故国・明(中国)から仏師・范道生(はんどうせい)を招いて彫像したものです。
七福神のなかで布袋尊(ほていそん)は、唐代末から五代時代にかけて中国・明州(現・中国浙江省寧波市)に実在した僧侶。
本名は契此(かいし)ですが、常に袋(頭陀袋)を背負っていたことから布袋という俗称が生まれたものなのです。
布袋は死の間際に「彌勒真彌勒 分身千百億(弥勒は真の弥勒にして分身千百億なり)、時時示時分 時人自不識(時時に時人に示すも時人は自ら識らず)」(1004年・景徳元年に道原が朝廷に上呈した禅宗を代表する燈史『景徳傳燈録』による)という偈文を遺したことから、布袋は弥勒菩薩(みろくぼさつ)の化身という伝説が生まれたのです。
話は、江戸時代初期の宇治、黄檗山萬福寺に戻ります。
中国では中世から、布袋になぞらえた太鼓腹の姿が弥勒菩薩の姿形として描かれるようになっていたので、来日した中国人仏師・范道生は中国では当たり前の弥勒菩薩像(実は布袋尊像)を黄檗山萬福寺に刻みます。
しかも本場・中国の仏師が彫ったという弥勒菩薩像は、創建当初は金色に輝いていましたから、さぞ話題を呼んだことでしょう。
室町時代に建長寺(鎌倉)西来庵の住僧仲安真康(ちゅうあんしんこう)が描いた『布袋図』には、すでに福々たる布袋尊が描かれているので、遅くとも鎌倉時代末期から室町時代には禅僧の間では布袋尊が認知されていたことがわかります。
それが庶民などに浸透したのは、この黄檗山萬福寺の弥勒菩薩像(布袋尊像)がエポックメイキングな出来事だっただろうと推測できるのです。
もし、宇治に黄檗山萬福寺が創建されなければ、七福神巡りは隆盛しなかったか、あるいは布袋尊が加わることはなかったのではないかと・・・。
通説では、七福神巡りは室町時代に生まれたとされており、それでは、江戸時代初期創建の黄檗山萬福寺と話が合いません。
つまりは、布袋尊抜きで始まり、後に布袋尊が加わったという可能性が大なのです。
「七福神めぐりは京都がルーツ」は本当!?
京都が七福神発祥という説にはうなづける背景が数多くあります。
たとえば東寺に安置される兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)は、平安京の羅城門(らじょうもん)に安置されていたと伝わる像で、今では国宝!
兜跋とは毘沙門天が現れたという、現在の中国・トルファン市のこと。
まさに平安京鎮護のための官寺として建立された東寺は毘沙門信仰のルーツともいえる場所なのです。
さらにゑびす神。
京都で「えべっさん」といえば京都ゑびす神社で、建仁2年(1202年)、栄西が建仁寺創建の際、その鎮守として鎮座したという古社。
臨済宗の開祖となる栄西は、宋からの帰国の際に、暴風雨から夷神(神戸湊などの漁師などが信仰した「海の神」だと推測できます)によって救われたことから、建仁寺の鎮守社として夷神を祀る社(現・京都ゑびす神社)が生まれたのです。
恵比須信仰で笹が使われるのは、建仁寺の鎮守だった社(現・京都ゑびす神社)の「御札」の形態が広まったものなのだとか。
七福神のなかに唯一の日本の神様である「ゑびす神」が加わったのも、この京都ゑびす神社の存在が欠かせないことになります。
「松ヶ崎の大黒さん」として知られる松ヶ崎大黒天(日蓮宗)に祀られる大黒天像は最澄(伝教大師)自刻と伝わる尊像。
室町時代には、日蓮宗でも大黒天が信仰されるようになっていたのです。
平安京の鬼門を護る赤山禅院(せきざんぜんいん)は第3代天台座主・円仁(慈覚大師)の遺命で創建された比叡山延暦寺の末寺。
その円仁が遣唐使船で唐に渡る際に道中を守護した赤山大明神を祀っているのです。
これは、中国・赤山にある泰山府君(たいざんふくん)を勧請したもので、比叡山延暦寺、そして天台宗の守護神(天台宗の護法三十番神のひとつ)で比叡山の西麓を護る役割を担っています(東麓は日枝神社が守護)。
中国古代からの神ですが、仏教の閻魔大王と習合し、人間の寿命と福禄を支配すると考えられるように。
赤山禅院の本尊・赤山大明神は、天にあっては福禄寿神、地にあっては泰山府君とされ、万物の命運を司るとされてきたのです。
こうして京の都にはゑびす神、大黒天、福禄寿など、由緒正しき七福神のメンバーが勢揃いし、室町時代から、それを巡るという信仰が生まれたのだと推測できます。
そして、黄檗山萬福寺の弥勒菩薩像(布袋尊像)が加わることで、七福神が完成したわけです。
江戸で花開いた七福神めぐり
江戸時代初期に京で完成した『七福神めぐり』は、江戸でも花開きます。
真っ先に完成したといわれているのが『谷中七福神』。
天海大僧正が寛永元年(1624年)、江戸城の鬼門封じに建立した寛永寺ですが、実は寛永寺は西の比叡山延暦寺に対して、東叡山が山号(東叡山寛永寺)。
徳川3代(家康・秀忠・家光)の顧問役だった天海大僧正(天台宗)は、不忍池を琵琶湖に見立て、琵琶湖に浮かぶ竹生島から辯才天を勧請して辯才天堂を建立します。
さらに東叡山寛永寺が開山したのと同時に建立された由緒ある塔頭(たっちゅう=子院)の護国院には3代将軍・徳川家光が大黒天の画像(鎌倉時代の藤原信実筆)を奉納。
さらに塔頭の感応寺(現・天王寺)には、伝教大師(最澄)自刻と伝わる毘沙門天像が・・・と、こちらも、数ヶ所の信仰スポットが線となり、自然発生的に巡礼の道となったと推測できます。
谷中・日暮里一帯は、江戸時代、日暮の里(ひぐらしのさと)といわれ、文人墨客が来遊する地。
当初は7ヶ寺というわけではなく、風流な土地に建つ数ヶ寺を巡る行楽的な巡礼だったのでしょう。
歴史を紐解けば、衰退したときもあれば、今はなき上野大仏がコースに加わっていた時代もあったとか。
太平の世となった江戸時代、京で生まれた開運祈願の七福神めぐりは、谷中という風光明媚な寺院群があったため、江戸の町にも定着、全国に広まっていったのです。
取材協力/黄檗山萬福寺(都七福神)、東寺(都七福神)、護国院(谷中七福神)ほか各社寺
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