【知られざるニッポン】vol.63 天下分け目の関ヶ原は、東西文化の分かれ目!?

東日本、西日本の文化的な分かれ目は、どこにあるのでしょう。その分かれ目こそ、わが町と宣言するのが、岐阜県関ケ原町と新潟県糸魚川町。とくに関ケ原町は、古代の三関(さんせき)のひとつ不破関(ふわのせき)があった場所で、ここから東が関東だった地です。

史上二度あった、「天下分け目の関ヶ原」

関ヶ原合戦図屏風
『関ヶ原合戦図屏風』(六曲一隻)/関ケ原町歴史民俗資料館蔵

東日本と西日本、関東と関西の分かれ目についての諸説は、【知られざるニッポン】vol.62 東日本と西日本、関東と関西の境目はどこ!? を参照いただいてここでは省略し、岐阜県(美濃国)と滋賀県(近江国)の県境(国境)に位置する岐阜県関ケ原町にスポットをあてて話を続けます。

今では東海道新幹線が走り抜ける関ヶ原ですが、不破関(ふわのせき)は、天智天皇の後継問題に端を発した壬申の乱(じんしんのらん)の際、大海人皇子(おおあまのおうじ=後の天武天皇)が、多品治(おおのほんじ)に命じて東山道を封鎖した場所が、現在の関ヶ原。
関ヶ原は壬申の乱の激戦地ともなった場所で、大海人皇子が兜(かぶと)をかけたとされる兜掛石が残されています。

壬申の乱に勝利して天武天皇となった大海人皇子は、自身の都である飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)を東国の勢力から守備するために、東山道に不破関(ふわのせき)、東海道に鈴鹿関(すずかのせき=伊勢国、現在の三重県亀山市)、北陸道に愛発関(あらちのせき=越前国、現在の福井県敦賀市内か)を設置したのです。
古代の三関と呼ばれる関所が古代から中世にかけての関東と関西の境界になったのです。

天武天皇元年(672年)に関東と関西を分ける不破関が関ヶ原に築かれていますが、慶長5年9月15日(1600年10月21日)、「天下分け目」の関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)で徳川家康が勝利すると、家康は五街道を整備し、東海道・箱根関所を境に、以東が関東(東日本)と、関東のエリアが大幅に狭まっています。

ここで注目は、天下分け目の戦いが、古代、そして近世初頭と2回も関ヶ原で行なわれている点。
地元関ケ原町も「天下を分ける戦いが二度もこの地で起こるとなるとやはりそこには何らかの必然性があったと考えた方が自然」として、岐阜県側の関ケ原町、隣接する滋賀県側の米原市柏原などを対象に「東西文化の調査」を実施しています。

関ケ原町の「東西文化の調査」で境界が判明!

東日本=角餅、西日本=丸餅の境が関ケ原町

関ケ原町が実施した「東西文化の調査」で、関ヶ原が様々な境界線であることが判明したのです。

例えば、「すき焼きに入れるネギが青ネギと白ネギのどちらか?」という質問に対し、関ケ原町はほとんど青ネギを使わないのですが、滋賀県側では西に行くにしたがって青ネギ使用が高くなり、青ネギ=西日本、白ネギ=東日本の境界線が関ケ原町にあることが判明。

「カレーに入れる肉の種類」についてのアンケートでは、岐阜県側の関ケ原町では豚肉が中心であることに対し、滋賀県側は牛肉と、西日本=牛肉、東日本=豚肉という境界がクッキリと現れたのです。
近江牛の産地である滋賀県に隣接する関ケ原町で、「カレーは豚肉」というのは、やはり東西文化の境界線である可能性が大。
愛知県では「カレーは牛肉」が多いのですが、東海道(愛知県は東海道で鈴鹿経由で関西と直結)と中山道(関ヶ原は中山道)という違いがあるのかもしれません。

「丸餅と角餅について」の設問では、関ケ原町では角餅(東日本文化)が大半で、 滋賀県米原市側の丸餅(西日本文化)との境界線が明確に現れましたが、角餅文化は少し滋賀県側に越境し、米原市柏原地区では少し角餅が優勢なこともわかっています。

そのほか、「いなりずしの形状の違い」(東日本=俵型、西日本=三角)、「ところてんの食べ方」(東日本=おかずと考える、西日本=デザートと考える)では、関ケ原町が東西の食文化の境界であることが判明。

それに対して鰻(うなぎ)のさばき方(関東=背開き・蒸す、関西=腹開き・直焼き)では、すでに関西圏の文化(注/現在判明している境界線は、愛知県豊橋市〜静岡県湖西町あたり)になっていることが判明したほか、「おにぎり(おむすび)の形状」では、圧倒的に「三角型」と回答した割合が高く、「俵型」が関西圏でも減少し、コンビニなどの登場で食文化が全国で共通化しているという現状も明らかになっています。

現代的な言葉使いに関しても「マクドナルドを『マクド』と省略する?」という調査では、関ケ原町が2割ほどなのに、近接する滋賀県では5割という結果に(西日本ではマクドと省略)。
東日本=〜だ、西日本=〜や・〜じゃ(西日本方言は母音があまり変化せず子音が脱落する傾向がある)という区分も、明確な差が生まれ、言葉も関ケ原町を境に大きくことなることがわかっています。

農業に関しても東日本=農耕馬、西日本=農耕牛の境界で、囲炉裏と竈(かまど)でも、東日本の囲炉裏と、西日本の竈の境であることが判明しています。
そのほか、雛人形(関東雛、京雛の違い)、線香花火(西日本=スボ手牡丹、東日本=長手牡丹)などの伝統的、文化的な境界も明確になり、関ケ原が今も「天下分け目」であることを立証しています。

余談ですが、「青春18きっぷ」で各駅停車・快速列車に乗り継いで、東京〜大阪を移動する際に、関ヶ原周辺は、JR東海とJR西日本の境界(米原駅)に近く、東海道本線で、もっとも運転本数が少ない区間になっていて、移動の関所となっています。
乗り鉄は、移動の関所を「関ヶ原越え」などと呼んでいますが、こんな通勤通学など日常交通のネックということも、東西文化を隔て続ける原因になっているのかもしれません。

関東と関西の境目

【知られざるニッポン】vol.62 東日本と西日本、関東と関西の境目はどこ!?

東日本と西日本の境は、糸魚川静岡構造線という地質学的な説、電気の周波数による区分け、通信事業者のNTTによる区分け、さらには気象庁による区分など、様々な区分があり、歴史的にも関西、関東の区分けは大きく移動し、古代には、東海道、鈴鹿峠、近世に

不破関資料館

不破関資料館

岐阜県不破郡関ケ原町、不破関跡の一角にある町立の歴史博物館が不破関資料館(ふわのせきしりょうかん)。天武天皇元年(672年)に起きた壬申の乱(じんしんのらん)の後、古代の東山道(とうさんどう)の関所として築かれた不破関に関して、詳細に解説し

 

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ラジオ・テレビレジャー記者会会員/旅ソムリエ。 旅の手帖編集部を経て、まっぷるマガジン地域版の立ち上げ、編集。昭文社ガイドブックのシリーズ企画立案、編集を行なう。その後、ソフトバンクでウエブと連動の旅行雑誌等を制作、出版。愛知万博公式ガイドブックを制作。以降、旅のウエブ、宿泊サイトにコンテンツ提供、カーナビ、ポータルサイトなどマルチメディアの編集に移行。

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