【知られざるニッポン】vol.28 全国にあった! 二重らせん構造の「さざえ堂」

さざえ堂、実際に内部に入ると誰もが「メビウスの輪」を連想します。テープの端をひねって片方の端につなぐと、あらら不思議にも・・・というあれです。実際にドイツの数学者アウグスト・フェルディナント・メビウスが「メビウスの輪」を発見するのは1858年のことですから、会津若松のさざえ堂の誕生は発見より60年以上も前ということに!

ルーツはフランス、シャンボール城!?

シャンボール城の二重らせん階段

フランスに、このさざえ堂と酷似したものがあります。ロワール地方、シャンボール城(Château de Chambord)の二重らせん階段。

城中央にある二重らせん階段は、上る人と下る人がすれ違うことのないように、巧妙な設計になっているのです。
設計は、レオナルド・ダ・ヴィンチとも。
ヘリコプター図案まで残したダ・ヴィンチですから、二重らせん構造の創案者と考えるのも当然です。

ダ・ヴィンチの設計思想が江戸時代に日本に渡来!?

佐竹曙山が洋書をスケッチした螺旋形

16世紀初頭のダ・ヴィンチの設計思想が、海を渡って18世紀の日本に届いたと想像する人も多いのです。
ヒントとなるのは、1721(享保5)年の徳川吉宗の享保の改革による洋書解禁。

出羽国久保田藩(現・秋田市)8代藩主で秋田蘭画の担い手でもあった佐竹義敦(佐竹曙山/1748年~1785年)の写生帖 に二重らせん構造の図が出ているのです。

この図は1670年にロンドンで刊行されたジョゼフ・ モクソン(1627~1700)の著書『実用透視画法』のなかの第35図の写しと判明しています。
蘭学書に描かれた精緻な挿し絵は、江戸時代、日本人の画家の刺激材料だったのでしょう。
となると《ダ・ヴィンチ→モクソン→佐竹義敦などの日本人→さざえ堂設計・建立》というチャートが成り立ちます。

日本最初のさざえ堂は、江戸本所五ツ目の羅漢寺

歌川広重『東都名所 五百羅漢さゞゐ堂』/1841(天保12)年

日本で最初に建てられたさざえ堂は、1728(享保13)年頃で、江戸本所五ツ目(現在の東京都江東区大島)の黄檗宗(おうばくしゅう)の羅漢寺です。

黄檗宗は1654(承慶3)年、中国から渡来してきた僧、隱元(いんげん)が開いた宗派で、土木技術も最新のものを保有していました。
蘭学書は中国語に翻訳され、長崎から江戸と運ばれた時代。

1695(元禄8)年創建の羅漢寺ですが、さざえ堂は3代住持の象先元歴が時の将軍吉宗の寄進で建立しています。
吉宗は、1721(享保5)年に洋書解禁を解禁していますが、青木昆陽を長崎に遊学させて蘭学を学ばせてもいる開明的な考えの持ち主。

往時の羅漢寺のさざえ堂は、上客用の板張りの参拝ルートと一般用の土間の参拝ルートの2種類があり、「すれ違うことなく昇降できた」のですから、やはりシャンボール城を想起します。

歌川広重『東都名所』、そして有名な葛飾北斎の『富嶽三十六景』にも描かれているので、江戸時代後期の超有名スポット、今でいうスカイツリー的な高楼だったと想像できます。

その羅漢寺、目黒区に移転になり、さざえ堂も明治8年に取り壊され、現存していません(そのいきさつは高村光雲『光雲懐古談』に登場)。

葛飾北斎 『富嶽三十六景』五百らかん寺さざゐどう

和算の普及で地方の大工もさざえ堂建築が可能に!

本所五ツ目の羅漢寺を皮切りに東日本では、江戸時代後期にさざえ堂の建設ラッシュが始まります。羅漢寺のユニークな構造が江戸っ子に大受けだったのでしょう。

江戸時代後期には、さざえ堂の建築を支える建築技術も大きな発展をみせます。
和算の普及により「規」(ぶんまわし=コンパス)と「矩」(かね/曲尺=かねじゃく)を巧みに使う曲尺規矩術(きくじゅつ)が大成したのが1727(享保12)年。

1812(文化9)年〜1833(天保4)年に幕府作事方棟梁・平内家がこれを公刊し、その技術が地方に波及してゆきます。
こうしてさざえ堂が、全国に建てられるようになったのです。

現存する「さざえ堂」を紹介しておきましょう。

日本各地に現存する、明治以前築のさざえ堂

明治時代以前に建てられた「さざえ堂」は、ほぼそのままの姿で現存するものは国内に7ヶ所(ニッポン旅マガジン調べ)。明治42年に建てられたものを平成26年に大修復したものが、理性院大師堂天如塔(長崎県島原市)です。

このほか、東京都豊島区の大正大学キャンパス内に平成25年に竣工した「すがも鴨台観音堂」(通称:鴨台さざえ堂)、JR大分駅のJRおおいたシティの屋上に併設される「夢かなうぶんぶん堂」などは、新たな「さざえ堂ブーム」を予感させる建物となっています。

蘭庭院六角堂

(青森県弘前市)
1839(天保10)年、弘前の豪商・中田嘉平衛の寄進。
日本最北のさざえ堂です。

蘭庭院栄螺堂

2017年11月26日

会津さざえ堂

(円通三匝堂)
伝承では郁堂禅師が、螺旋状によった紙縒り(こより)を2本組み合わせ、二重螺旋構造を思いついとか。
話としては少しできすぎな感じもします。
1796(寛政8)年築で、国の重要文化財。

さざえ堂(円通三匝堂)

2017年7月30日

長禅寺三世堂

(茨城県取手市)
1801(享和元)年に建てられたもので、外観は2層、内部が3階建て。らせん階段を上り101体の観音像を参拝できます。
各観音像の賽銭箱に入れられたお賽銭は1階に集まるような仕掛けも。
御開帳は年一度、4月18日のみです。

長禅寺三世堂

2017年11月26日

曹源寺さざえ堂

(群馬県太田市)
1793(寛政5)年の創建で、外観は2階建てに見えますが、内部は3層になっています。
堂内には秩父、坂東、西国の観音札所計100ヶ寺の観音像を安置し、右回りに堂内を一方通行で巡拝。
埼玉県児玉町・成身院と福島県会津若松市のさざえ堂と合わせて、「日本三大さざえ堂」といわれていますが、曹源寺のさざえ堂が規模では最大です。

曹源寺(さざえ堂)

2017年11月17日

成身院百体観音堂

(埼玉県本庄市児玉)
1783(天明3)年の浅間山大爆発と噴火後の天明の大飢饉の万霊供養のため建立。
外見は2階建てですが内部は3層。
1層には、秩父三十四霊場、2層には坂東三十三霊場、3層には西国三十三霊場の観音像の合計100体を安置。
現存する建物は明治43年の再建です。

成身院百体観音堂

2017年11月26日

西新井大師三匝堂

(東京都足立区)
西新井大師の正式名は總持寺。
三匝堂は、1840(天保11)年に江戸・伊勢屋彦衛門が創建で、現存する建物は明治17年の再建。
ささえ堂スタイルになったのは明治の再建時。
1層に88体の大師像と本尊、2層に13仏、3層に五智如来と二十五菩薩を安置。都内唯一のさざえ堂ですが、残念ながら内部は非公開。

西新井大師・三匝堂

2017年11月26日

大龍寺羅漢堂

(名古屋市千種区)
地元名古屋でもさざえ堂の存在を知る人は皆無といえるほどですが、大龍寺は、有名な宇治の黄檗山万福寺の末寺。
羅漢堂は、江戸本所の羅漢堂を真似て、1778(安永7)年に建築を開始、2年後に開眼供養をしています。
時の住持である指月が江戸の羅漢寺フィーバーに刺激されて建築に至ったとか。
御三家筆頭の地としては負けられません。
名古屋ゆえに名古屋城天守閣風の外観になっていますが中は二重らせん構造。
内部も漆喰塗籠造り、屋根に鯱が乗るという吉宗の緊縮政策に反対した尾張藩だけのことはあります。
なんとも豪華な造りです。

【知られざるニッポン】vol.28 全国にあった! 二重らせん構造の「さざえ堂」
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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ラジオ・テレビレジャー記者会会員/旅ソムリエ。 旅の手帖編集部を経て、まっぷるマガジン地域版の立ち上げ、編集。昭文社ガイドブックのシリーズ企画立案、編集を行なう。その後、ソフトバンクでウエブと連動の旅行雑誌等を制作、出版。愛知万博公式ガイドブックを制作。以降、旅のウエブ、宿泊サイトにコンテンツ提供、カーナビ、ポータルサイトなどマルチメディアの編集に移行。

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