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【知られざるニッポン】vol.65 奈良公園はかつて興福寺の境内だった!

奈良公園

明治13年2月14日、太政官布達第十六号により開園した広大な都市公園が奈良公園(奈良県奈良市)。野生の鹿が遊ぶ公園として有名ですが、実は、明治初年の廃仏毀釈、神仏分離までは興福寺の境内だった場所です。興福寺は、春日社(現在の春日大社)と神仏習合で一体化していたのです。

神仏分離、廃仏毀釈で境内が奈良公園に

明治初年の神仏分離、廃仏毀釈は古都・奈良にも大きな荒波が押し寄せました。
都が平城京(奈良)から平安京に(京)に移ると、藤原氏の氏寺であった興福寺が春日社(現・春日大社)の神宮寺(別当)となりました。

祀られるのは春日権現(春日大明神=神仏習合の神で、不空羂索観音・薬師如来・地蔵菩薩・十一面観音が本地仏)とされたのです。

神仏分離で、春日権現は廃され、興福寺の僧侶の多くは還俗して春日社の神職になり、春日大社として独立。
廃仏毀釈で子院は全て廃止、さらに興福寺の寺領は明治政府によって没収され(明治3年の太政官布告によって境内地以外のすべてを上知)、最終的には堂塔の敷地のみが残されることになったのです(維新当初は興福寺という寺の名を名乗ることすらできませんでした)。

明治6年1月15日、政府は都市公園設定関して、各府県に対して、「古来から名所旧跡といわれるところは公園として申し出よ」と通達を出しています。
これが太政官布達第十六号で、昭和31年に都市公園法が制定されるまで、80年間にわたって都市公園に関しての法整備はこの太政官布達だけでした。

太政官布達第十六号
正院達第拾六号府県ヘ 三府ヲ始、人民輻輳ノ地ニシテ、古来ノ勝区名人ノ致跡地等是迄群集遊観ノ場所(東京ニ於テハ金竜山浅草寺、東叡山寛永寺境内ノ類、京都ニ於テハ八坂神社境内嵐山ノ類、然テ此等境内除地或ハ公有地ノ類)従前高外除地ニ属セル分ハ永ク万人偕楽ノ地トシ、公園ト可被相定ニ付、府県ニ於テ右地所ヲ撰シ其景況巨細取調、図面相添大蔵省ヘ可伺出事
明治六年一月十五日   太政官

太政官布達第十六号で、奈良県は興福寺の境内地を没収し(寺領は明治4年の上知令で没収)、奈良公園として開園しているのです。
芝公園が、芝・増上寺の境内地、上野恩賜公園が寛永寺境内だったのと同様に、明治維新とともに誕生した都市公園の多くは、実は江戸時代までの名刹、古刹の境内地だった場所が多数あります。

廃仏毀釈以前、興福寺は一乗院、大乗院という門跡寺院(皇族・公家が住職を務める名刹)が交互に寺を管理していましたが、その2つの子院も廃絶。
一乗院跡は、奈良地方裁判所、大乗院跡が奈良ホテルで、奈良ホテルでは「旧大乗院庭園」(名勝)が公開されています。
初代の奈良県庁舎は、興福寺食堂跡の擬洋風建築「寧楽書院」(興福寺に設置された教員伝習所、後の奈良師範学校、現在の奈良教育大学)を転用したものでした。

応永33年(1426年)の再建という美しい五重塔(昭和27年、国宝に)も売りに出され、買い手は塔自体は燃やして金目の金具類だけを取り出そうとしましたが、延焼などの危惧、さすがにシンボル的な建物を取り壊すにいかないなどの意見もあって、なんとか後世にその姿を伝えています。

奈良公園内にかつて興福寺が管理した神仏習合時代の春日社(現・春日大社)の東西五重塔の礎石も残されています。
西塔は永久4年(1116年)、関白・藤原忠実(ふじわらのただざね)が建立、東塔は保延6年(1140年)、鳥羽上皇(とばじょうこう)が建立したものでしたが、治承4年(1180年)の南都焼討(平清盛の命を受けた平重衡ら平氏軍が、東大寺、興福寺などを焼き討ち)で焼失。
鎌倉時代に再建されましたが室町時代に落雷で焼失しています。

奈良県町から200mほど南に行ったところに、興福寺南大門跡(奈良市登大路町48)がありますが、ここがかつての興福寺の正面玄関。
南大門自体は享保2年(1717年)に焼失した後、再建されていないので、廃仏毀釈時にはすでにありませんでした。
明治初年の神仏分離、廃仏毀釈まで、天平時代とほぼ同様の伽藍配置を誇った興福寺ですが、今は、寺域を区切っていた塀もなくなり、のびやかな奈良公園の草地、そして奈良ホテル、奈良地方裁判所、奈良県庁などの官庁街が広がっているのです。

鹿は神使とされる奈良公園の鹿に「鹿せんべい」でも与えながら、神仏習合時代の興福寺・春日社にぜひ思いを馳せてください。
この鹿が神使という考えも藤原氏の氏寺・興福寺と氏神・春日社が神仏習合するなかで、確立していったもので、14世紀には『春日鹿曼荼羅図』も描かれているのです。

【知られざるニッポン】vol.65 奈良公園はかつて興福寺の境内だった!
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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奈良公園

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