新春とともに群馬県内の各地で始まるだるま市。伊勢崎などの『初市』もメインの商品はだるまです。群馬県、埼玉県、そして東京の多摩地方で、だるま市が開かれるのは、実は江戸時代〜明治時代にかけて養蚕地帯だったから。養蚕とだるまには深い関係があったのです。
七転び八起きで、縁起がいい!
眉毛は「鶴」、鼻から口ヒゲは「亀」という高崎だるまは、「福だるま」、「縁起だるま」と呼ばれています。
高崎だるまを生み出したのは、上州碓氷郡上豊岡村(現・高崎市豊岡町)の山縣友五郎。
江戸で疱瘡(天然痘)除けに赤いだるまが売られていたのを参考に、故郷の上州(群馬県)から持ち帰り、それを真似て生産したのが、高崎だるまの始まりとされています。
当時は紅などの赤い染料が高価で貴重だったため、生産量が限定されていました。
文久2年8月9日(1862年9月2日)、山縣友五郎は没していますが、安政6年6月2日(1859年7月1日)、日米修好通商条約(安政五ヶ国条約)で横浜港が開港したことが、高崎のだるま生産に大きな転機を及ぼします。
文明開化とともに、横浜港から赤い染料が入手しやすくなったこと。
そしてもうひとつが、明治の日本の対外貿易を支えた生糸の輸出です。
当時、ヨーロッパで蚕(かいこ)の伝染病(微粒子病)が蔓延し、養蚕が壊滅的な打撃を受けていたのです。
こうした蚕糸不足を背景に、群馬県での養蚕業は発展しますが、養蚕には天候なども大きく影響するため(当時の農家は蚕が食する桑の葉も自前で育てていました)、七転び八起きで、縁起がいい顔の「福だるま」は、欠かせない縁起物になったのです。
蚕が無事に育ってくれるのを祈願してだるまを購入!
二十四節気をさらに3つに分けた七十二候の5月半ばに、「蚕起食桑」(かいこおきてくわをはむ)がありますが、文字通り、桑の葉を蚕が食べ始める時季を表しています。
蚕が桑の葉を食べ始まることを「起きる」と表現することは、まさにだるまが「起きる」ことに通じるのです。
しかも成熟した蚕を繭を作らせる場所に移すことを上蔟(じょうぞく)といい、「養蚕上がり」と表現したことから、「起きる」、「上がる」で、だるまの「起き上がり」にピッタリとマッチしたのです。
しかも高崎のだるまは、養蚕業者を意識して、繭(まゆ)の形にもこだわっています。
これは、横浜港から蚕糸の輸出が盛んになって以降、元金沢藩士の木型彫り名人・葦名鉄十郎が木型を作る際に、丸みを帯びた蚕の繭を思わせるような繭に変えたのです。
さらに「鶴は千年、亀は万年」という縁起をかついで、眉毛は鶴、髭は亀を表すように変化。
腹部には衣線の間隔を少し開け、「福入」という言葉を入れて、縁起物度をさらにアップさせました。
こうしてだるま、とくに高崎だるまは、養蚕農家にとってなくてはならない願掛けのシンボルとなったのです。
繭が多くとれた際には「大当たり」として、だるまに目を入れたとも。
公称年間生産量90万個、「全国シェア8割」といわれる高崎だるまは、明治時代、横浜開港を背景にした養蚕農家の隆盛とともに発展していったのです。
現在、関東で生産されるだるま、そしてだるま市が行なわれる場所が、かつての養蚕地帯であることは、偶然ではない、ということがおわかりいただけたでしょうか。
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