和歌山県和歌山市、和歌山駅の東、東口から徒歩10分程度の場所にあるのが、太田城水攻め遺跡・小山塚。天正13年(1585年)、羽柴秀吉の太田城水攻めは、太田城を取り囲んで大規模な堤を築き、水攻めをして雑賀衆の立て籠もる太田城を攻略。水攻めで亡くなった兵を埋葬したと伝えられるのが小山塚です。
「日本三大水攻め」太田城水攻めを今に伝える塚
小山塚のすぐ西隣の来迎寺が太田城本丸跡なので、一帯が雑賀衆太田党の将・太田左近の立て籠もった太田城の中核部分だったと推測できます。
東西250m、南北200mの平城で、周囲に堀を巡らせていました。
紀ノ川南岸の出水地区には出水堤の跡が残されていますが、測量調査で基底部の幅31.0m、長さ45.0m、高さ5.0mという大規模な堤であることがわかっています。
天正10年(1582年)、備中高松城の水攻めをすでに経験している羽柴秀吉は、太田城の雑賀衆太田党と根来衆の残兵(根来寺に立て籠もった根来衆は直前に陥落)の頑強な抵抗を前に、太田城も水攻めを決意するのです。
高さ5mの堤を全長7.2kmに渡って巡らせ、内部に紀ノ川の水を引いて孤立化させる作戦です。
大雨も秀吉の味方をしますが、宣教師ルイス・フロイスがイエズス会に送付した書簡には太田城側には「米のみでも20万俵を超えた」備蓄があったと記され、さらに「堀に接して対壁を作り、水の城内に入ることを防がんとした」と徹底抗戦したことがよくわかります。
小西行長(原文は「海の司令官アゴスチニョ」)に命じて船からの砲撃を加えたとも記され、これでついに降伏となったのです。
1ヶ月にもわたる籠城戦が展開しますが、太田左近は蜂須賀正勝のもとに使いをやり、自らの命と引き替えに城兵の助命を嘆願。その結果、主だった城将53人が切腹し、太田城は開城。
戦後は、虎伏山(とらふすやま)山頂に羽柴秀長(紀州征伐の副将軍として参陣し、平定後に紀伊・和泉の2ヶ国を加増)が和歌山城の築城を開始し(普請奉行は築城の名手・藤堂高虎)、若山を和歌山に改めています。
時代は中世から近世へ、その大きなうねりの中で、太田城の水攻めが行なわれ、中世的な城館は廃城となりました。
その後、一帯は和歌山城の城下町に組み込まれ、都市化もあって城館的な遺構は残されていません。
太田城水攻め遺跡・小山塚 | |
名称 | 太田城水攻め遺跡・小山塚/おおたじょうみずぜめいせき・こやまづか |
所在地 | 和歌山県和歌山市太田2-3-7 |
電車・バスで | JR・和歌山電鐵和歌山駅から徒歩10分 |
ドライブで | 阪和自動車道和歌山ICから約3km |
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