山口県萩市、松陰神社近くの椿東地区にあり、伊藤博文が14歳~28歳までの13年間の家が伊藤博文旧宅。博文は、ここから松下村塾(しょうかそんじゅく)にも通っていたのです。茅葺き入母屋造りの平屋の旧宅には、勉強部屋や母に叱られて立たされた「出世石」などが残されています。国の史跡。
伊藤博文が青年時代、拠点とした実家
伊藤博文は、天保12年(1841年)、周防国熊毛郡束荷村(現・山口県光市/伊藤公記念公園・伊藤公資料館)の農家、林十蔵・琴子の長男として生誕(幼名は利助、後に春輔)。
伊藤博文が萩で暮らした家は、藩政時代には萩藩の中間(ちゅうげん=侍と小者との間に位置し、武士に奉公する使用人的な存在)、伊藤直右衛門の屋敷。
嘉永2年(1849年)、利助は単身赴任していた父に呼び出され萩に移住。
利助が12歳の時、父・十蔵が長州藩の蔵元付中間・水井武兵衛の養子となり、さらに安政元年(1854年)、水井武兵衛が伊藤直右衛門の養子となり、結果として伊藤姓を名乗るようになったのです(十蔵・博文父子も足軽に)。
安政4年(1857年)、江戸湾警備のため相模に派遣されて相模国にいた際、作事吟味役・来原良蔵(くるはらりょうぞう=妻は桂小五郎の妹・治子)と親しくなり、その紹介で17歳の時にこの家から松下村塾に通い始めています。
松下村塾では、高杉晋作、久坂玄瑞(くさかげんずい=長州藩における尊王攘夷派の中心人物で、高杉晋作とともに「村塾の双璧」)らとの交流が生み出されています。
長州藩士(萩藩士)として長崎への遊学、長州藩の江戸屋敷詰め、文久3年(1863年)にはイギリス留学などもあったため、13年間を過ごした家といっても実は、ここに腰を据えていたわけではなく、明治維新後に兵庫県知事(官選)になるまでの間、ここを実家に国内を目まぐるしく動いていたというのが正しい表現です。
風呂場とトイレは屋外にあり、当時の典型的な下級武士の邸宅の様子がよくわかります。
旧宅横には、萩焼でつくられたほぼ等身大の伊藤博文陶像が立っているので、記念撮影には絶好。
また、隣接して平成10年に、東京都品川区から移築した伊藤博文別邸(明治41年築)があります。
令和2年1月~令和3年12月に茅葺きの吹き替えなど、大規模な保存修理が行なわれ(その間は公開中止)、美しく蘇っています。
生誕地の光市には、産湯の井戸、平成3年に復元された伊藤博文の生家、伊藤公資料館などがあり、伊藤公記念公園として整備されています。
伊藤博文旧宅 | |
名称 | 伊藤博文旧宅/いとうひろぶみきゅうたく |
所在地 | 山口県萩市椿東 |
関連HP | 萩市観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR東萩駅から萩循環まぁーるバスで、松陰神社前下車、徒歩5分 |
ドライブで | 中国自動車道山口ICから約44km |
駐車場 | 7台/無料 |
問い合わせ | 萩市観光課 TEL:0838-25-3139 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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