山口県萩市、重伝建に選定される堀内地区、萩城大手門(二の丸南門)跡の南50mに建つ厚狭毛利家(あさもうりけ)の萩屋敷の武家長屋が旧厚狭毛利家萩屋敷長屋。萩に現存する武家長屋ではもっとも規模が大きな建物で、横一列に各部屋が並び、蒔絵を施した籠などの道具類が展示されています。国の重要文化財。
萩城大手門跡近くに現存する武家長屋
萩市堀内地区伝統的建造物群保存地区に選定される萩城三の丸地区にあるのが、国の重要文化財に指定される旧厚狭毛利家萩屋敷長屋。
厚狭毛利家は、毛利元就(もとなり)の五男・毛利元秋が興し、長門国厚狭郡厚狭(現在の山口県山陽小野田市)を治めていたことからその名があります。
毛利元秋は、天正13年(1585年)、34歳のとき、月山富田城で病死。
毛利元秋の八男・末次元康が祖となり、関ヶ原合戦後に、厚狭に1万500石を与えられ、萩藩(長州藩)の家老職を務めています。
四本松毛利家と呼ばれたのは、萩屋敷の前の道に4本の松が並んでいたから。
残念ながら藩邸も、松も失われ、武家長屋のみが現存しています。
全長51.5mの長大な武家長屋は安政3年(1856年)、厚狭毛利家10代・毛利元美(もうりもとよし/毛利元教とも)時代の築造で、屋根は入母屋造り、本瓦葺き。
5つに区画された内部ですが、いずれも土間がなく、東の座敷は狭いながらも畳廊下を配した格調高い造りであることから、身分の高い者に用意された詰め所であることがわかります。
毛利元美は、長州藩内では幕府に恭順する俗論派で、元治元年(1864年)、俗論派の藩政時代となって家老に就任するも、翌慶応元年(1865年)、改革派の政権となって厚狭で謹慎しています。
つまりは、激動の幕末、長州藩の歴史を目の当たりにした武家長屋ということに。
厚狭毛利家13代目となる2人が第二次世界大戦で戦没したため、直系の家系は断絶しています。
同じ堀内地区にある口羽家住宅などとともに、「萩市文化財施設1日券」が利用できます。
旧厚狭毛利家萩屋敷長屋 | |
名称 | 旧厚狭毛利家萩屋敷長屋/きゅうあさもうりけはぎやしきながや |
所在地 | 山口県萩市堀内85-2 |
関連HP | 萩市観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR萩駅から萩循環まぁーるバス西回りで34分、萩城跡・指月公園入口下車、すぐ |
ドライブで | 中国自動車道山口ICから約45km |
駐車場 | 萩市営指月第一駐車場(50台/無料) |
問い合わせ | 萩市観光課 TEL:0838-25-3139 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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