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下関要塞 火の山砲台跡

下関要塞 火の山砲台跡

関門海峡を隔てる九州側と本州・下関側に、緊迫するアジア情勢を背景に、明治20年から築かれたのが下関要塞。清国の北洋艦隊や、ロシアのバルチック艦隊の来襲を念頭に、榴弾砲などを備える砲台を築いたのですが、そのうちのひとつが火の山山上に築かれた火の山砲台です。火の山公園には下関要塞火の山砲台跡の第三砲台、第四砲台の跡が現存。

火の山山上、眺めのいい4ヶ所に砲台が

第四砲台には司令室も置かれていました

下関側に火の山砲台、田の首砲台、戦場ヶ原砲台、金比羅山堡塁砲台、筋山砲台、老の山砲台、弟子待砲台、数珠山砲台、観音崎砲台、九州側に、田向山砲台(手向山砲台)、古城山砲台、笹尾山砲台、和布刈砲台、高蔵山砲台、富野山保塁、矢筈山保塁、霊鷺山保塁、そして玄界灘に蓋井島砲台、角島砲台、六連島砲台、大島砲台、沖ノ島砲台、白島砲台が置かれていました。
砲台は対艦船用、保塁は陸戦用です。

工事開始は日清戦争の直前。
日清戦争終戦直後の明治28年4月6日に下関要塞司令部が設置され、元・長州藩士の勝田四方蔵(しょうだよもぞう)少将が司令官として赴任しています。
重要な軍事機密だったため、戦前は写真撮影や立ち入りなども厳しく制限されていました。

火の山の山上には、第一から第四まで4ヶ所に砲台が築かれていましたが、現存しているのは、第三砲台と第四砲台の跡。
第一砲台と第二砲台に、28cm榴弾砲を各4門配備、第三砲台には24cm加農砲(カノン砲)8門、そして第四砲台(堡塁砲台)には28cm榴弾砲2門、15cm臼砲2門、12cm加農砲(カノン砲)2門が備えられていました。
28cm榴弾砲(二十八糎榴弾砲)は日露戦争に投入され、その火力を発揮したものですが、下関砲台では実戦に使われることはありませんでした。

第三砲台、第四砲台は見学可能

第一砲台は、火の山ロープウェイの火の山駅(山頂駅)建設時に消滅(つまりは火の山駅は第一砲台跡ということに)。
第二砲台もまた、旧展望台建設時に破却されています(展望台は第二砲台跡です)。

第三砲台も大きく改変され、大砲が据えられていた砲座部は駐車場(バス転回所)の一部に、そして掩蔽部の一部は休憩所に変身しています。
第四砲台も電波塔の建設で一部を失っていますが、地下のコンクリートとレンガで築かれた部分、火薬庫なども現存しています。
ただし、上部は第二次大戦での高射砲陣地として改変されているので、明治時代のものではありません。

なお、火の山砲台は、土木学会選奨土木遺産に認定されています。
下関周辺では「関門トンネル」(在来線用)と「角島灯台および関連施設群」も土木学会選奨土木遺産。

下関要塞を生んだ清国の誇る北洋水師(北洋艦隊)とは!?
近代的な甲鉄蒸気艦が多数投入された世界史上初の海戦は、日清戦争のさなか、明治27年9月17日に日本海軍連合艦隊と清国海軍北洋水師(北洋艦隊)の間で行われた黄海海戦(こうかいかいせん)。
日清戦争直前の時点では、ドイツで造船された戦艦(旗艦)「定遠」、戦艦「鎮遠」清国の北洋水師(北洋艦隊)がアジア最大の艦隊として君臨していました。
日清間の戦争は、海軍力で優位にある清国が日本に侵攻すると想定され、世界最大級の30.5cm砲を4門備え、しかも装甲の分厚い戦艦「定遠」、「鎮遠」(明治18年就役)は、大きな脅威となっていました。
そこで陸軍省は下関に要塞を築き、北洋水師(北洋艦隊)の瀬戸内海への侵入を防ごうと考えたのです。
戦艦「定遠」
戦艦「鎮遠」
下関要塞 火の山砲台跡
名称 下関要塞 火の山砲台跡/しものせきようさい ひのやまほうだいあと
所在地 山口県下関市藤ケ谷
関連HP 下関市公式ホームページ
電車・バスで JR下関駅からサンデン交通バス火の山行きで20分、火の山下車
ドライブで 中国自動車道下関ICから約3.4km
駐車場 火の山パークウェイ駐車場(276台/無料)
問い合わせ 下関市観光施設課 TEL:083-231-1838
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

火の山公園

2018年12月19日

火の山ロープウェイ

2017年7月16日

 

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