山口県山口市大殿大路にある大内氏の居館跡が、大内氏館跡。西の京と称され中世に大内文化を花開かせた大内氏の居館は、大内弘世(おおうちひろよ)が周防(すおう)、長門(ながと)平定後、防長両国の守護となり、正平15年・延文5年(1360年)に本拠を移して築いた居館が栄華の始まりです。
200年にわたり、西日本の政治、経済の中心地だった館
大内弘世は、京に倣った都市計画を行ない、一の坂川を京の鴨川に擬えて、宇治からゲンジボタルを取り寄せて放ったと伝えられています。
その子・大内義弘(おおうちよしひろ)は、勢力を拡大し、中国・明や朝鮮・高麗との貿易も行なっています。
弱体化した足利幕府(足利義満)と対立し、応永の乱を起こしますが、最後には畠山満家に討ち取られています。
跡を継いだ12代当主・大内持世(おおうちもちよ)は、周防・長門・豊前・筑前守護、さらに13代当主・大内教弘(おおうちのりひろ)、14代当主・大内政弘(おおうちまさひろ)の時代には日朝貿易、日明貿易で繁栄し、雪舟を招くなど(雪舟を遣明船で明に派遣)、大内文化の最盛期を迎えています。
今に残る常栄寺庭園(雪舟が築いたとされる庭園)は、この時代のもの。
15代・大内義興(おおうちよしおき)の時代には、室町幕府の管領代となって将軍の後見人となり、周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城の7ヶ国の守護職となっていますが、尼子氏との覇権争いも起こり、戦国時代が幕開け、栄華の陰りも見え始めています。
大内氏最盛期の居館は堀を含めると東西160m、南北170m以上の規模を誇る方形の居館で、室町幕府の将軍居館を真似たといわれています。
居館の北側に迎賓館として別邸の築山館(築山御殿)を築き、さらにいざという時の詰の城として、高嶺城(こうのみねじょう)を配していました。
大内氏館跡は、龍福寺境内などになっていますが(室町時代築の龍福寺本堂は国の重要文化財)、発掘調査により庭園跡も発見されています。
龍福寺の北、八坂神社・築山神社に隣接する地に「大内氏遺跡築山跡公園」があり、見学が可能。
龍福寺本堂に向かって右手にあるひょうたん池は、昭和後期の発掘調査で出土し、平成23年に復元された大内氏館内で最大の庭園(2号庭園)です。
16代・大内義隆(おおうちよしたか)の時代に作庭されたと推定される枯山水庭園(3号庭園)も復元され、大内文化を偲ぶことができます(発掘調査で見つかっている形状不明の1号庭園、枯山水庭園の4号庭園(本堂北側)は復元されていません)。
枯山水庭園(3号庭園)は、大内義隆との交流があったという京・大徳寺大仙院の枯山水庭園(国の特別名勝、室町時代を代表する枯山水庭園)に似ているともいわれ、枯山水の頂点ともいわれる庭が、山口にもあったことがわかります。
発掘調査で柱を据えた穴などが確認された西門も復元。
大内氏館・高嶺城として続日本100名城、大内氏館跡・築山跡・高嶺城跡・凌雲寺跡で国の史跡に指定されています。
大内氏館跡 | |
名称 | 大内氏館跡/おおうちしやかたあと |
所在地 | 山口県山口市大殿大路119 龍福寺 |
電車・バスで | JR山口駅から徒歩15分 |
ドライブで | 中国自動車道湯田温泉スマートICから約7km、山口ICから約8km |
駐車場 | 龍福寺駐車場、史跡大内氏遺跡見学者用駐車場を利用 |
問い合わせ | 山口市観光交流課 TEL:083-934-2810 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
最新情報をお届けします
Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!
Follow @tabi_mag