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日本三霊山とは!?

山そのものが神という信仰は古代から日本にありましたが、日本古来の古神道が修験道や仏教と融合し、中世には山岳信仰として隆盛します。雪を被った高嶺は霊山として崇められましたが、日本を代表する3つの霊山が、「日本三霊山」。富士山、白山、立山の三山が「日本三霊山」で、「日本三名山」も同じく富士山、白山、立山の3座です。

日本三霊山を知ることは、日本の修験道の歴史を学ぶことに!


古代神道において、神霊が宿る依り代(よりしろ)を神奈備(かんなび)と呼びますが、それは同時に常世(とこよ)と現世(うつしよ)の境ともされました。
その後、仏教が伝来すると、とくに空海の伝えた密教と山岳信仰が融合し、「修行して迷妄を払い験徳を得る。修行して、その徳を驗(あら)わす」という修験道が生まれます。
修験道の行者たちにとって、俗世界と隔絶された霊山の環境は、悟りを開くための地として絶好だったのです。

修験道の始まりは、奈良時代(7世紀)、 修験道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ=役小角/えんのおづぬ)が修行して金剛蔵王権現(究極不滅の真理を体現し、あらゆるものを司る王)を感得した大峰山・吉野山(奈良県吉野山・金峯山寺)です。

つまり、世界文化遺産に登録の吉野山は、修験道の始まりの山で、古代神道、修験道、仏教、神道というにほんの宗教の歴史が凝縮されています。

では、なぜ吉野山が三霊山に数えられないかといえば、ひとつは、別格ということ。
もう一つの理由は、南北朝時代に南朝の皇居とされ、その後、それが原因で政治的配慮からか、熊野詣で、吉野詣でが廃れたから。
逆に、富士山、白山、立山の登拝は、「山上の異界」を求める庶民の気持ちも反映して、江戸時代に隆盛を迎えるのです。

富士山/富士山信仰

古代、現在の山宮浅間神社(静岡県富士宮市)に噴火を鎮める浅間大神を祀ったのが始まりという富士山信仰。
山宮浅間神社では、今も本殿はなく祭祀遺跡としての形式を色濃くを残しています(平成22年9月19日に「山宮浅間神社鎮座1900年祭」が斎行されています)。
その後、修験道と古代信仰が交わり、富士修験が生まれます。

『浅間大菩薩縁起』によれば、走湯山(伊豆山神社の前身)で修行し、各地の霊山を巡歴した僧・末代(まつだい=富士修験道の開祖)が長承元年(1132年)に富士山に登頂。
このときに、富士山頂で過去に登頂を成し遂げた金時上人、覧薩上人、日代上人らの遺品を発見したと伝えられています。
その後、富士山頂に大日寺を建立し、宗教登山が幕を開け、江戸時代の富士講の全盛に繋がります。
江戸はもちろん、尾張(名古屋周辺)などからも富士山を目指し、信者の地元にミニ富士ともいえる富士塚が築かれました。
絵を使って信仰を説明する「絵解き」には『富士山曼荼羅』が使われていますが、これは密教的な思想性は薄れていますが、輪廻転生を繰り返す宇宙の仕組みそのものを富士山に当てはめたビジュアルな解説と考えることができます。

明治の神仏分離で、仏教的な要素が廃され、富士山信仰は、富士宮の富士山本宮浅間大社を本宮とする、全国1300社の浅間神社に継承されています。

富士山本宮浅間大社

2018年8月24日

富士山頂上浅間大社奥宮

2018年8月23日

富士山 剣ヶ峰

2018年8月22日

山宮浅間神社

2017年4月20日

白山/白山信仰

修験道の僧・泰澄(たいちょう)は、養老元年(717年)、越前国(後の加賀国)の白山に登拝し、妙理大菩薩(白山妙理権現=白山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神)を感得。
白山を開山しています。
平安時代にはすでに、禅定道(ぜんじょうどう)と呼ばれる禅頂(山頂)に到達する登拝の道が整備されています。
加賀馬場(現・白山比咩神社)、越前馬場(現・平泉寺白山神社)、美濃馬場(現・長滝白山神社)を起点として、山頂を目指したのです。
天長9年(820年)、それぞれの馬場に、白山寺、平泉寺、長滝寺の神宮寺が建立。
こうして白山修験は、単なる修験道を超え、中世には加賀国を中心に政治的な力も発揮しています。

南北朝の騒乱で、吉野山や熊野三山詣でが衰退すると、代わって、白山信仰が全国に伝わったのです。
戦国時代には白山修験は比叡山延暦寺と結びつき平泉寺は8000人もの僧兵を有していました。

明治維新の廃仏毀釈、神仏分離で、山上・山麓の多くの仏堂、仏像が破却され、修験僧は神官となり、白山神社となって白山信仰を継承しています。
廃寺を免れた白山中宮長滝寺も長滝白山神社と長瀧寺(天台宗)に分けられて存続。
現在は、白山比咩神社(石川県白山市)が総本社です。

白山比咩神社

2018年8月10日

白山

2018年8月10日

白山文化博物館

2018年7月20日

長滝白山神社

2018年7月20日

立山/立山信仰

『立山開山縁起』によれば、大宝元年(701年)、奈良時代の越中国司・佐伯(宿禰)有若の子、佐伯有頼(さえきのありより)が開山したのが立山。
立山信仰は立山で鷹狩りをしている際に、阿弥陀如来の垂迹(すいじゃく=化身)である立山権現に出会ったことに始まります。

立山信仰では『立山曼荼羅』が有名で、立山山麓の岩峅寺(いわくらじ)、芦峅寺(あしくらじ)が立山信仰の中心として栄えました。
立山山上は、開山伝説に基づいて、浄土と地獄にそれぞれ分けられ、立山を巡拝することで死後の世界を擬似体験し、死の世界を体感しながら、現世へ戻るという異色体験ができるというテーマパーク的な意味合いを有していました。
なかでも立山主峰の雄山は極楽浄土の象徴だとされました。
こうした立山権現への信仰は、江戸時代には芦峅寺衆徒によって全国に広められました。

明治維新の神仏分離、廃仏毀釈では芦峅寺・岩峅寺が廃寺に追い込まれ、雄山神社に強制的に改組され、立山権現信仰の布教すら禁止されてしまいました。

現在は立山権現の歴史を雄山神社が継承し、立山頂上峰本社、芦峅中宮祈願殿、岩峅前立社壇の3社で構成されています。

立山(大汝山)

2021年5月9日

ミクリガ池

2018年4月30日

立山(雄山)

2017年7月30日

地獄谷(立山地獄)

2017年7月30日
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掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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