愛媛県西宇和郡伊方町三机(みつくえ)・塩成(しおなし)、佐田岬半島の尾根上を走る国道197号(佐田岬メロディーライン)途中にある橋が、堀切大橋。橋の下は愛媛県道254号(三机港線)の堀切峠(標高73m)で、峠をまたぐように架けられたアーチを描く鉄橋(上路式ローゼ橋)です。
江戸時代、運河開削を断念した「塩成の堀切」に架かる橋
堀切峠は、佐田岬半島が最も狭くなる場所に位置し、慶長15年(1610年)、宇和島藩主・富田信高(とみたのぶたか)が、宇和島藩政確立のため瀬戸内海と宇和海を結ぶ運河の開削を試みるも断念した場所で、橋のたもと部分には「塩成の堀切」と称される掘削跡も残されています。
宇和島藩主が江戸に出向く時、宇和島城下で御座船に乗り、塩成でいったん下船、籠で山を越え三机(みつくえ)の御仮屋に入り、御座船は三机へと回送、三机で再度、御座船に乗船するという複雑な行程をとっていました。
これは佐田岬先端部の沖が潮流が激しいため(宇和海、伊予灘の水位差によるもの)、危険を避けてのことで、内海航路の要衝の地だった三机へと抜ける運河の開削は悲願だったと推測できます。
「ほソ切の長さ、塩成の方ふりより、三机の方こぶり迄三百四拾間、高さ貮間より拾貮間まで。同底幅塩成の方は貮拾四間、三机の方は四拾間、同峠の上口の幅三拾壹間」(『宇和旧記』)。
工事自体は硬い岩盤に阻まれ、人夫を酷使するのみで進捗せず、富田信高も改易となって中止され、塩成地区には工事での犠牲者を葬ったと伝えるクヨウサマ(供養様)と称する場所があります。
全長200mの堀切大橋は、昭和62年12月4日に完成、橋の完成で国道197号(佐田岬メロディーライン)が全通しています。
堀切大橋の東詰には道の駅「佐田岬半島ミュージアム」があり、佐田岬観光の拠点にもなっています。
堀切大橋 | |
名称 | 堀切大橋/ほりきりおおはし |
所在地 | 愛媛県西宇和郡伊方町塩成 |
ドライブで | 松山自動車道大洲北只ICから約32km |
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