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半田赤レンガ建物(旧カブトビール工場)

半田赤レンガ建物(旧カブトビール工場)

愛知県半田市にあるレンガ造りの建物が半田赤レンガ建物(旧カブトビール工場)。明治31年に丸三麦酒のビール工場として建築され、「カブトビール」の製造が行なわれましたが、昭和初期に製造は終了し、戦時下では中島飛行機製作所の衣糧倉庫として使用されたもの。国の登録有形文化財、経済産業省の近代化産業遺産になっています。

明治29年9月6日、丸三麦酒創業

丸三麦酒は、明治22年、中埜酢店4代目・中埜又左衛門(なかのまたざえもん)と敷島製パン創業者・盛田善平(もりたぜんぺい/丸三麦酒醸造所創業後に、半田に敷島屋製粉工場を創業)らにより、「丸三ビール」と名づけられた瓶詰めビールが3000本余りが製造されたのが始まり。

明治28年、京都・岡崎公園(東京遷都以降の京都低迷を活性化)で開かれた『第4回内国勧業博覧会』に大阪の大阪麦酒(アサヒビールの前身)に対抗してビアホールを出店。
十数人の芸者に赤前掛・赤襷で宣伝させたところ、そのPRが有名になり、増産体制に。
こうして、明治29年9月6日、北海道の札幌麦酒(サッポロビールの前身)、東京の恵比寿ビール(日本麦酒)、横浜のキリンビール(ジャパン・ブルワリー・カンパニー/キリンビールの前身)、大阪の大阪麦酒(アサヒビールの前身)に対抗して丸三麦酒株式会社が設立されています。

明治31年には、ビールの本場ドイツから機械技師A.F.フォーゲルと醸造技師ジョセフ・ボンゴルを招き、妻木頼黄(つまきよりなか)設計の赤レンガ工場の内部にはドイツ、ゲルマニヤ機械製作所によるビール醸造器械を設置。
こうして、「加武登麦酒」(カブトビール)の醸造が始まります。

「加武登」という名称は、日清戦争後の世相を反映し、「勝って兜(かぶと)の緒を締めよ」と、地元・知多半島は日本酒の産地(「知多の半田は蔵の街、酒蔵・酢の蔵・木綿蔵」)で、日本酒を喉(のど)で景気よく飲むことを「かぶる」といったため。

半田赤レンガ建物(旧カブトビール工場)で製造されたビールは、明治33年のパリ万国博覧会(Exposition Universelle de Paris 1900/エッフェル塔が建設された万博で、アール・ヌーヴォーの嵐が吹き荒れていました)の日本政府の出展したティーハウスで販売され、金牌を受賞。
「佛国巴里大博覧会 金牌受賞」というカブトビールの広告が全国の新聞を賑わせたのです(カブトビールは当時、国内では大手メーカーで、広告掲載も他社を圧倒)。

その後、合併などの変遷を経て、昭和8年7月に大日本麦酒株式会社と合併、戦時下の昭和18年に企業整備令の適用で、半田工場を閉鎖しカブトビールの製造を終了しています。

戦時中は建物が中島飛行機半田製作所の所有物となり、厚生課の本拠が置かれたため(衣糧倉庫などに活用)、終戦間際の昭和207月15日米軍機の攻撃目標となり、建物北側の壁面にはP51小型機(通称ムスタング)による機銃掃射の痕も残されています。

戦後は、日本食品化工のコーンスターチ加工工場として平成6年まで現役の工場として使われていました。
工場閉鎖後、平成8年に半田市が買取り、平成27年から「半田赤レンガ建物」として公開。

旧工場内には常設展示室、カフェ&ビアホール Re-BRICK、ショップがあり、半田赤レンガ建物やカブトビール誕生の歴史を、模型・映像・写真なので学ぶことができるほか、復刻したカブトビールとビールに合う料理を味わうことができます。

愛知県岡崎市にある八丁味噌カクキュー関連遺産、まるや八丁味噌関連遺産、東海市のカゴメ記念館の所蔵物、そして半田市のミツカン(博物館酢の里)及び関連建造物群などとともに「伝統食品の近代化や新たな食文化の創造に挑んだ中部・近畿の食品製造業の歩みを物語る近代化産業遺産群」として経済産業省の近代化産業遺産に認定されています。

建物の設計は明治建築界の三大巨匠・妻木頼黄

建物の設計は、横浜正金銀行本店(現・神奈川県立歴史博物館)、横浜新港埠頭倉庫(現・横浜赤レンガ倉庫)などで知られる妻木頼黄(つまきよりなか)で、2重~5重の空気層を有する壁などビール工場ならではの構造。

妻木頼黄は、東京駅などで知られる辰野金吾(たつのきんご)、迎賓館(旧東宮御所)、奈良国立博物館、京都国立博物館などで有名な片山東熊(かたやまとうくま)と並んで明治建築界の三大巨匠と称される建築家です。

しかもこの半田赤レンガ建物(旧カブトビール工場)は妻木頼黄設計の建築物としては、現存する最古のもの。
明治時代のレンガ建築として現存屈指の規模を誇っています。

妻木頼黄は、内閣臨時建築局に勤務する明治19年、議事堂建築など近代的な西洋建築を習得するためのドイツへの出張命令で、シャルロッテンブルク工科大学建築学部に入学。
この留学で本場のビールを好んで飲み、帰国後に、大阪麦酒会社吹田工場(明治23年)、日本麦酒会社目黒工場(明治29年)、そして明治31年の丸三麦酒工場(半田赤レンガ建物)とたちどころにライバル関係のビール工場の建築に携わっています(妻木頼黄は、山口県旧庁舎竣工後の大正5年、57歳で没しています)。
つまりは、明治政府の西欧化政策の一環で、半田に大規模なビール工場が築かれ、東海地方のビール文化を支えた工場になったのです。

半田赤レンガ建物(旧カブトビール工場)
名称 半田赤レンガ建物(旧カブトビール工場)/はんだあかれんがたてもの(きゅうかぶとびーるこうじょう)
所在地 愛知県半田市榎下町8
関連HP 半田赤レンガ建物公式ホームページ
電車・バスで 名鉄河和線住吉町駅から徒歩5分。JR半田駅から徒歩15分
ドライブで 知多半島道路半田中央ICから約3.5km
駐車場 323台/無料
問い合わせ 半田赤レンガ建物 TEL:0569-24-7031
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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