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名古屋城・清正公石曳きの像

名古屋城・清正公石曳きの像

愛知県名古屋市中区、名古屋城の東南隅櫓を眺める梅園近くに立つのが、清正公石曳きの像(きよまさこういしひきのぞう)。加藤清正は、関ヶ原の合戦後、徳川家康に接近し、慶長15年(1610年)の名古屋城の天下普請(てんかぶしん)に協力、石垣工事で大活躍したのが加藤清正だったのです。

加藤清正が名古屋城天守石垣の構築を担当

尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれ、豊臣秀吉とは縁戚にあたるため、秀吉が長浜城主となった際に、小姓として取り立てられて、出生街道を歩んでいます。
築城の名手とされる加藤清正の、築城技術の集大成といわれるのが熊本城で、天正19年(1591年)から築城が始まっています。

藤堂高虎とともに築城の名手とされる加藤清正ですが、名古屋城の天下普請では得意分野である天守台の石垣を担当。

肥後熊本から2万人ともいわれる工事人を引き連れて名古屋入りし、わずか3ヶ月足らずで天守台石垣の工事を終えてしまったと伝えられています。
加藤清正は慶長15年6月10日(1610年7月29日)に名古屋入り。
8月27日(西暦10月13日)には天守台石垣工事を完了させているので、記録の上では2ヶ月半ほどで完成させています。
しかもその間の8月24日(西暦10月10日)には再建駿府城城の天守を上棟しているので、いかに手際が良かったのかがよくわかります。

天守の建物自体は、徳川家康が慶長17年6月28日(1612年7月26日)に、天守を早く建てることを命じているので、少し遅れたことがわかり、その年の8月23日(西暦9月18日)になって大規模に大工が投入され、11月21日(1613年1月11日)に上棟しています。

慶長19年(1614年)に方広寺鐘銘事件、慶長20年(1615年) には大坂の陣(大坂夏の陣)が始まっているので、名古屋城の完成は、それを見越してのことだということがよくわかります(名古屋城普請の際には豊臣家へも動員が命じられたため、淀殿がこれに拒否反応を示しめています)。

天守台の上に建つ天守自体は、秘密を守る必要があるため、徳川将軍家の大工頭・中井正清(なかいまさきよ)が担当しています(天守作事奉行は小堀遠州)。
中井正清にとっては天守の建築の最後で、これまでの城作りの集大成が名古屋城天守といえるのです。

有名な加藤清正の銅像は、名古屋城の正面側、名古屋能楽堂前の国道22号沿いにありますが、こちらは坐像で、昭和54年、地元メーカーのカゴメが創業80周年記念で鋳造し、名古屋市に寄付したもの。
名古屋出身の彫刻家・高藤鎮夫(たかとうしずお)の制作。

石の上で加藤清正自らが指揮をする姿を像にした、清正公石曳きの像は、地元の彫刻家で名古屋造形芸術大学(現・名古屋造形大学)学長も務めた石黒鏘二(いしぐろしょうじ)の作品。
中村公園の『日吉丸となかまたちの像』、名城公園の『浮遊』、志賀公園の『歴史の音』、白鳥公園の『翔姿』、瑞穂公園の『勝利への門一競』も制作しています。

名古屋城・清正公石曳きの像
名称 名古屋城・清正公石曳きの像/なごやじょう・きよまさこういしびきのぞう
所在地 愛知県名古屋市中区三の丸
関連HP 名古屋城公式ホームページ
電車・バスで 名古屋市営地下鉄名古屋城駅から徒歩5分
駐車場 正門前駐車場(319台/有料)、二之丸東駐車場(202台/有料)
問い合わせ 名古屋城総合事務所 TEL:052-231-1700
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

名古屋城

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名古屋城・清正石

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名古屋城・東南隅櫓

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