名古屋城・清正石

名古屋城・清正石

愛知県名古屋市中区、名古屋城の本丸東二之門を入った正面にある八畳敷という巨石が、清正石。
天下普請(てんかぶしん)で名古屋城を築城する際、築城の名手である加藤清正が運んだ石と伝えられることから清正石のながあります。ただしこの場所の石垣を担当したのは黒田長政なので、後世の作り話とされています。

搦手枡形門にある推定重量10tという巨石

名古屋城・清正石
あえてこの場に置いたというのがよくわかります

名古屋城の石垣は、本丸、二之丸、西之丸、御深井丸(おふけまる)、三之丸と、城全体で総延長8.2kmにも及んで張り巡らされています。

築城が始まったのは、大坂城に豊臣秀吉が陣取る慶長15年(1610年)のこと。
天守台石垣は加藤清正が、その他の石垣工事は、寺沢広高、細川忠興、毛利高政、生駒正俊、黒田長政、木下延俊、福島正則、池田輝政、鍋島勝茂、毛利秀就、加藤嘉明、浅野幸長、田中忠政、山内忠義、竹中重利、稲葉典通、蜂須賀至鎮、金森可重、前田利光という西国大名20家(旧来の豊臣家臣で外様大名)が担当し、「丁場割り」と称して大名ごとに持ち場が決められていました。

使われた石垣には刻印が打たれて、どの大名が運んだのかが明確化され、刻印を付けることで不要な諍い(いさかい)を避けたのだと推測できます。

本丸の搦手枡形門(からめてますがたもん/本丸東一之門)にある清正石と称される推定重量10tもの巨石は、福岡藩主・黒田長政の担当エリアにあるので、黒田家の普請と考えるのが自然。

名古屋城の石垣の根石置(基礎となる重要な根石の配置)が始まったのが慶長15年6月3日(1610年7月22日)で、加藤清正が天守台の石垣造営のため名古屋入りしたのが、6月10日(7月29日)、なんと8月27日(10月13日)には天守台石垣工事を完了させています。

もし、清正石が名実ともに加藤清正が運んだ石とするなら、天守台用に運んだ巨石を、石田三成襲撃事件に加担した武断派七将としても仲が良く、同じ九州の大名として封じられた黒田長政に譲ったということに。

清正石があるのは、名古屋城本丸の二之丸側に位置する搦手枡形で、二重の門で構成された枡形を設けて、その外側に総石垣の巨大な馬出を配置するという、防御重視の構造。
本丸の裏口となる搦手門だけに、天守台には使わなかった巨石をあえて配したという可能性もあります。

御殿に近い城門に配される表面が平らな巨石は、鏡石と通称され、多くの城に存在します。
藩主の住む御殿への通路に置かれるため、巨石を見せつけることで、登城する人に威圧感を与える効果があり、藩主の権力を象徴するもののひとつです。
担当した石工職人が巨石を切り出し運ぶ能力が高いことをアピールする効果もあったので、加藤清正が連れてきた肥後の石工職人が担った可能性もあります。
ただし、慶長9年(1604年)に没した黒田長政の父・黒田如水(黒田官兵衛)も築城の名手だったので、黒田家お抱えの石工職人と考えることもできます。

本丸東一之門とも呼ばれた搦手枡形門は、昭和20年の空襲で、天守や本丸御殿とともに焼失し、石垣だけが現存。

名古屋城本丸空撮MAP
名古屋城本丸空撮MAP
名古屋城・清正石
名称 名古屋城・清正石/なごやじょう・きよまさいし
所在地 愛知県名古屋市中区本丸1-1
関連HP 名古屋城公式ホームページ
電車・バスで 地下鉄名城線市役所駅から徒歩5分
駐車場 正門前駐車場(319台/有料)、二之丸東駐車場(202台/有料)
問い合わせ 名古屋城総合事務所 TEL:052-231-1700
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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