奈良盆地に都を置き、大化改新で律令制が始まった古代の日本で、畿内を守るために設けられた3ヶ所の関所が三関(さんげん)。当初は美濃国(岐阜県)・関ヶ原の不破関、伊勢国(三重県)・鈴鹿峠近くの鈴鹿関、越前国(福井県)の愛発関でしたが、平安時代、愛発関に代わって近江国(滋賀県)・逢坂関が入っています。
不破関|岐阜県
所在地:岐阜県不破郡関ケ原町松尾21-1
歴史:天武天皇元年(672年)に起きた壬申の乱(じんしんのらん)の後、天武天皇が古代の東山道(とうさんどう)の関所として設置
奈良時代末の延暦8年(789年)には交通の妨げになるとして3関とも廃止されていますが、その後も形式的には残り、鎌倉時代には通行料(関銭)を取っていたことがわかっています
現在:北面土塁の東西長460.5m、東面土塁の南北長432.1mという広大な範囲が関で、その内部に不破関資料館が建っています(発掘調査の成果に基づいて造られた不破関全景の復元模型をはじめ、瓦や土器、中世の陶器、和同開珎などの出土品を展示)
鈴鹿関|三重県
所在地:三重県亀山市関町新所
歴史:大宝元年(701年)に設置、延暦8年(789年)廃止
現在:観音山の裾で奈良時代の特徴を持つ重圏文軒丸瓦(じゅうけんもんのきまるがわら)が出土し、瓦葺きの築地塀(ついじべい)の一部が検出され、鈴鹿関の西辺築地塀部分だと推測され、国の史跡に
関自体は、江戸時代に設置された関宿(現・亀山市関宿伝統的建造物群保存地区)の範囲内で、宿場町となっていて遺構も見つかっていません
関地蔵院は、天平13年(741年)、国中に流行した天然痘から人々を救済するため行基によって創建されたという古刹で、鈴鹿関に設置されたのも畿内に疫病が入らないためだと推測できます
逢坂関|滋賀県
所在地:滋賀県大津市逢坂
歴史:大化2年(646年)に初めて設置され、その後いったん廃止されますが斉衡4年(857年)に再設置(平安時代にはここが畿内の東端)
都と東国・北国を結ぶ東海道・東山道・北陸道の3つの主要道路が集中する交通の要衝
現在:多くの文人が歌を残し蝉丸が居を構えた逢坂山ですが、実際の逢坂関がどこにあったのかは定かでありません
現在、長安寺が建つ滋賀県大津市逢坂2丁目に関寺という寺があり(南北朝時代に廃絶)、そのあたりに関があったとも推測されていますが、近世以降、道路改良で道が掘り下げられて、場所の特定が困難に
国道1号沿いに逢坂の関記念公園が整備され、逢坂山関址(おうさかやまのせきあと)の石碑が立っています(実際に関所があったのは、記念碑から少し大津寄りと推測されています)
三関とは!? | |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
最新情報をお届けします
Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!
Follow @tabi_mag