世界文化遺産の登録を目指す「飛鳥・藤原の宮都」。東アジアとの政治的・文化的交流によって中央集権体制に基づいた宮都が誕生し、日本国誕生の舞台となった飛鳥京ですが、同時に「日本庭園」のルーツともいえる庭が築かれていました。その遺構が飛鳥京跡苑池遺跡(奈良県高市郡明日香村)です。
飛鳥京に併設された庭園の遺構が現存

邪馬台国から、豪族の連合であるヤマト王権へ、そして中国・朝鮮半島(東アジア)との交易を通じて、中央集権国家の確立を目指した飛鳥時代。
6世紀末〜7世紀後半、現在の奈良県高市郡明日香村には、皇極・斉明天皇の2代の大王(おおきみ)の宮殿だった飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきみや)、天武・持統天皇の2代の天皇(初めて天皇を称したのは天武天皇という説が有力)の飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)という飛鳥宮(宮殿)を中心に、仏教伝来を背景に蘇我氏の氏寺・飛鳥寺などの寺院(古代寺院)、そして庭園(飛鳥京跡苑池)、飛鳥水落遺跡(日本最古の水時計)などが築かれました。
飛鳥京跡苑池は、飛鳥板蓋宮跡と伝えられる宮殿跡(飛鳥宮跡)の北西隣接地にあり、南池、北池を配した苑地で、東アジアからの外交使節団を接待する庭園だったと推測されています。
斉明天皇の時代である7世紀中頃に築庭され、7世紀末、天武天皇・持統天皇の飛鳥浄御原宮時代まで使われていました。
南北280m、東西100mの範囲に、南池と北池、そして水路や建物などが築かれていました。
水深の浅い五角形の南池には中島があり、高床式の「水上舞台」もあったことがわかっています。深い北池は階段状の護岸もあることから祭祀的な用途があったと推測されています。
こうした宮殿付属の庭園は、中国のほか朝鮮半島でも確認され、しかも飛鳥京跡苑池遺跡は、古代の朝鮮半島の苑池と類似性があることから、渡来人の技術者が加わった、もしくはその技術を活かしたこともわかっています。
それでいて意匠や構造は日本特有のものなので、「日本庭園のルーツ」、そして「日本最古の庭園」といえる存在です。
祭祀などにも使われたようですが、日本の大王(天皇)が、先進の律令国家・中国に認められるため、中央集権体制を整える過程で、宮殿を整備し、それに付属する庭園を築いたものだと推測できます。
当然、唐(中国)など大陸からの使者、使節団をここでもてなすことで、日本が「野蛮な国」ではないことを認めさせようとしたのです。
斉明天皇、天智天皇の時代には、百済救援を目的に、朝鮮半島にも軍事介入を行ない、白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)で唐と新羅の連合軍と交戦し、敗北しています。
そうした東アジアの緊張関係もあった飛鳥時代、優雅な庭園が飛鳥京に築かれていたのです。
画像協力/世界遺産「飛鳥・藤原」登録推進協議会

飛鳥京に築かれた「日本最古の庭園」は、大陸文化と日本文化の融合で誕生 | |
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