【昭和レトロの旅】甲府を「ボロ電」が走った時代

ボロ電

昭和37年7月1日まで、現在、信玄像の立つ、甲府駅前(山梨県甲府市)には、地元で「ボロ電」として親しまれた電車が走っていました。山梨交通は、今でこそ路線バス、高速バスの会社として知られていますが、この「ボロ電」は、正式名が山梨交通電車線で、20.3kmの郊外型路面電車を走らせていました。

30年ほど甲府盆地を走ったローカル私鉄

ボロ電
甲府駅前を走る「ボロ電」

路面電車は都市部を走るイメージで、あまり郊外を走るのが想像できないかもしれませんが、馬車鉄道を前身とする路線は、軌道に電車を走らせるという路面電車転換というケースもありました。

山梨では富士山麓電気鉄道も前身は、馬車鉄道。
中央本線がまだ未開通の時代、甲府〜勝沼、甲府〜鰍沢(かじかざわ/富士川の舟運、身延山参詣の玄関口)にも山梨馬車鉄道が走り、近代化とともに馬車鉄道が活躍していました。
明治36年6月11日には官設鉄道(後の中央本線)が甲府駅まで延伸、明治37年12月27日、甲府駅前に山梨馬車鉄道(後の甲府電車軌道)が乗り入れて、ターミナル化が実現しています。

山梨馬車鉄道は、官設鉄道の開通で、甲府〜勝沼の輸送に大打撃を受け、各地の鉄道経営に関わり「明治の鉄道王」と称された実業家・雨宮敬次郎(あめのみやけいじろう/現・甲州市牛奥の出身、中央本線の前身、甲武鉄道に投資)に譲渡、新会社「山梨軽便鉄道」が誕生しています。

さらに山梨軽便鉄道の路線を引き継いだのが地元の名士・金丸宗之助(政治家・金丸信の祖父)が設立した甲府電車軌道。
甲府〜鰍沢は、甲府市内の路線は馬車鉄道の軌道を活用、郊外は競合の富士身延鉄道と離れた場所に専用軌道を敷設し、昭和5年5月1日山梨電気鉄道として貢川駅(くがわえき/現・甲府市富竹1丁目)〜甲斐大井駅(当時の大井村、現・南アルプス市)が開業。
昭和7年12月27日に甲府駅前〜甲斐青柳駅が全通しています。

創業者・金丸宗之助の没後は経営も悪化し、峡西電力が設立した新会社「峡西電気鉄道」に譲渡され、経営が大きく改善。
戦時下の昭和20年5月に山梨交通電車部となりました。

戦後も、甲府駅前電停を駅近くに移設し、国鉄との乗り換えの便を図るなど改善しましたが、バス輸送などとの競争に打ち勝つことができず、昭和34年の伊勢湾台風の大打撃からの復興を果たせずして、昭和37年7月1日、30年余の歴史に幕を閉じました(電車代行バス運行開始)。

「ボロ電」と称された理由は、会社社屋がボロかった、国鉄に比べて簡素な施設、車両など諸説あり定かでありませんが、甲府らしい親しみを込めた名前ともいわれています。

山梨県富士川町の利根川公園に「山梨交通7形電車」が静態保存されていますが、廃止後に上田丸子電鉄(現・上田交通)に譲渡、さらに江ノ島鎌倉観光(現・江ノ島電鉄)に再譲渡されたという車両です。
「ボロ電」のレガシーを伝えるものはあまりなく、この保存車両は奇跡的ともいえる存在です。

【昭和レトロの旅】甲府を「ボロ電」が走った時代
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