東海道に通じる桜田門(小田原口)、奥州街道に通じる大手門(大手口)中山道の神田橋門(芝崎口)、上州街道の田安門(上州口)、甲州街道の半蔵門(甲州口)が江戸五口。外郭に設置された見附も虎ノ門見附、常盤橋門、筋違見附、牛込見附、四谷見附があり、入退城を監視していました。
桜田門・虎ノ門見附|東海道
寛永元年(1624年)完成の東海道に通じるルートの玄関口が、江戸城内郭(内堀に囲まれた区域)を守備する桜田門、外郭の虎ノ門見附(虎ノ門御門)です。
桜田門は現存し国の重要文化財に指定されていますが、虎ノ門見附は石垣の一部だけが現存しています。
現在も桜田門から直進する道は、国道1号。
そのまま進めば品川宿に通じています。
大手門・常盤橋門|奥州街道
古くは浅草口・大手口とも呼ばれ、浅草を経て奥州街道(現在の国道4号)に通じる重要な場所。
正保3年(1646年)、奥州街道が完成で、その玄関口になったのが、内郭が大手門、外郭が常盤橋門です。
大手門は、入口側の高麗門のみ江戸時代の建築物が現存しています。
外郭の常盤橋門は、江戸城の外郭部分の正門ですが、石垣のみ現存。
神田橋門・筋違見附|中山道
中山道は元禄7年(1694年)完成。
芝崎口門・神田口門・大炊殿橋門とも称された神田橋門は、明治6年に撤去され、残念ながら現存していません。
現在の本郷通りにあったのが神田橋門で、神田橋と鎌倉橋の間に石垣の一部が残されています。
将軍が上野・寛永寺に参詣の際にはこの神田橋門を使っているため、警護も厳重だったとか。
外郭の筋違見附は、現在の昌平橋と万世橋の間に位置し、そこにあった橋が架け代わって万世橋となっています(明治5年、筋違見附門が取り壊され、余った石材を利用して初代の萬世橋が架橋)。
この筋違見附を渡った先で中山道に合流し、神田明神から本郷へと向かいました。
筋違見附の城内側には、明暦・天和の大火後、火除地を兼ねた広場が設けられ、八方に道が通じていたことから八ツ小路、八辻小路の名が付いていました。
『神田祭』の行列は、江戸城での将軍上覧の後、この筋違見附を出て、神田明神に戻る行程でした。
田安門・牛込見附|上州街道
太田道灌(おおたどうかん)築城時代の江戸城では、この場所が田安口(飯田口)で、上州方面、北関東へと繋がっていましたが、江戸時代に五街道が整備されて以降は中山道本庄宿(埼玉県本庄市)から分岐して上州・藤岡宿(藤岡市)に至るルートなどが使われていました。
田安門、牛込見附を出て、神楽坂、高田馬場を経て中山道・板橋宿に至り、本庄宿を目指すことで、上州街道の入口としての機能を果たしていました。
半蔵門・四谷見附|甲州街道
甲州街道は少し遅れて明和9年(1772年)の完成。
将軍家にもしもの時は、八王子を経て甲府城に逃げる脱出ルートだったともいわれ、服部半蔵ゆかりの半蔵門が内郭の門。
そして外郭が四谷見附で、まさに現在の甲州街道です。
| 江戸城の玄関口、江戸五口とは!? | |
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