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蒙古襲来750年、元寇の遺跡を巡る

元寇の遺跡を巡る

博多に元軍(蒙古とその支配下だった高麗の軍)が押し寄せた元寇。文永11年(1274年)、の文永の役、弘安4年(1281年)の2回あり、令和6年(2024年)は、文永の役、つまりは蒙古襲来750年となります。博多湾沿いに築かれた元寇防塁、元軍と幕府軍が激戦を繰り広げた古戦場などを巡りましょう。

元寇防塁跡(今津地区)

所在地:福岡県福岡市西区今津
担当した御家人:大隅国・日向国
規模:柑子岳麓から毘沙門岳麓まで全長3km
高さ3m、上の幅2m、下の幅3mで石を台形に積み上げる形式
現状:松原の中に約200mが復元整備、千人塚、万人塚と呼ばれる2つの蒙古塚も現存

元寇防塁跡(今津地区)

文永11年(1274年)、元・高麗連合軍は3万の大軍で博多湾西部に上陸(文永の役)。その後、博多の海岸線には防塁を築いていますが、保存整備されて見学が可能なのが元寇防塁跡(今津地区)。弘安4年(1281年)の2回目の蒙古襲来(弘安の役)で蒙

元寇防塁跡(長垂地区)

所在地:福岡県福岡市西区今宿駅前1丁目
担当した御家人:豊前国
規模:長垂山の麓から今山の麓まで全長2.2km、発掘調査が行なわれておらず形状は不明
現存:長垂海水浴場では、砂浜の松林の中に石が埋まって連なっている状態を見学可能(松林に部分的に石塁が確認できる程度)

元寇防塁跡(長垂地区)

福岡県福岡市西区今宿駅前1丁目、長垂海浜公園(今宿海岸)にある鎌倉時代の遺構が、元寇防塁跡(長垂地区)。文永11年(1274年)、元・高麗連合軍は3万の大軍で博多湾西部に上陸(文永の役)。その後、博多の海岸線には築かれた防塁のひとつで、国の

元寇防塁跡(生の松原地区)

所在地:福岡県福岡市西区生の松原
担当した御家人:肥後国
規模:長垂海岸から小戸海岸にかけての生の松原(いきのまつばら)で、全長2.5km
幅1~1.5m、高さ1.8mに石を積み上げ、背後を粘土で補強する形式
現存:中央部の長さ50mを築造時と同じ高さに復元
備考:鎌倉時代の肥後国御家人・竹崎季長(たけざきすえなが)が描かさたという『蒙古襲来絵詞』(もうこしゅうらいえことば)には、生の松原の石築地の前を通過する竹崎季長の姿が描かたもの(TOPの画像)

元寇防塁跡(生の松原地区)

最初の蒙古襲来・文永の役後の建治2年(1276年)、鎌倉幕府執権・北条時宗が元軍の再襲来に備えて九州の諸武将に命じて築かせた石築地が元寇防塁。博多湾岸の東西に20kmにも渡って延び、9ヶ所ほどが現存(国の史跡)しますが、肥後国の地頭(御家人

元寇防塁跡(西新地区)

所在地:福岡県福岡市早良区西新7-4-66
担当した御家人:筑前国・筑後国(分担国は不明)
規模:海岸の砂丘の上に粘土を敷くという基盤工事が行なわれ、基部の幅は3.4mと広いのが特徴
現存:西南学院大学体育館横に復元された防塁と、元寇神社が鎮座
備考:西新地区(にしじんちく)は、当時、百道原と呼ばれた地で、文永の役(1274年)では元軍がこの百道浜に上陸、鎌倉幕府軍の防御の拠点だった場所です

元寇防塁跡(西新地区)

二度にわたる博多湾への元寇(げんこう)のうち、文永の役後の建治2年(1276年)、鎌倉幕府執権・北条時宗が元軍の再襲来に備えて九州の諸武将に命じて築かせた石築地が元寇防塁。福岡市早良区の西新地区(にしじんちく)は、当時、百道原と呼ばれた地で

祖原元寇古戦場跡|元軍の一部隊が陣を構えた古戦場

所在地:福岡県福岡市早良区昭代1-7
内容:この地に陣取った元軍は、「てっぽう」、「毒矢」などを使い、集団戦法で日本軍を翻弄
記念碑の文面は「元寇麁原戦跡」で、麁原(そはら)というのは当時の名称
現存:小さな丘の祖原山全体が祖原公園として整備

祖原元寇古戦場跡

文永11年10月20日(1274年11月19日)、元軍は博多湾(現・福岡県福岡市)に襲来し、主力部隊となる蒙古・漢軍は百道原に上陸、祖原、鳥飼、赤坂の一帯が激戦の地となりました。元軍の一部隊が陣を構えた古戦場のひとつが祖原山(標高33m)。

蒙古襲来750年、元寇の遺跡を巡る
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

蒙古襲来750年、実は、元寇で神風は吹かなかった!?

博多に元軍(蒙古とその支配下だった高麗の軍)が押し寄せた元寇。文永11年(1274年)、の文永の役、弘安4年(1281年)の2回あり、令和6年(2024年)は、文永の役、つまりは蒙古襲来750年となります。これまで定説だった「神風が吹いた」

 

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