元寇防塁跡(長垂地区)

元寇防塁跡(長垂地区)

福岡県福岡市西区今宿駅前1丁目、長垂海浜公園(今宿海岸)にある鎌倉時代の遺構が、元寇防塁跡(長垂地区)。文永11年(1274年)、元・高麗連合軍は3万の大軍で博多湾西部に上陸(文永の役)。その後、博多の海岸線には築かれた防塁のひとつで、国の史跡に。

地元豊前国が担当した元寇防塁

今津は大隅国・日向国、今宿(長垂)は豊前国、生の松原は肥後国、姪浜は肥前国、博多は筑前国・筑後国、箱崎は薩摩国、香椎は豊後国と九州9ヶ国に分担を割り当て突貫工事で完成させたため各担当ブロックにより仕様が異なっているのがわかります。

長垂山から今山にかけての長垂地区(今宿)の防塁は豊前国が担当。
古文書には、築城郡吉富村を本拠とした成富氏が、乾元2年(1303年)この地区の防塁の修理を完了したという報告があり、弘安の役(1281年)以降にも防塁の修理が行なわれ、蒙古に対する警備体制が解かれずに継続していたという当時の緊迫した国際環境がよくわかります。

長垂地区(今宿)では、長垂海水浴場前が国史跡に指定され、長垂海水浴場では、砂浜の松林の中に石が埋まって連なっている状態を見学可能。

元寇防塁跡(長垂地区)
名称 元寇防塁跡(長垂地区)/げんこうぼうるいあと(ながたれちく)
所在地 福岡県福岡市西区今宿駅前1丁目
関連HP 福岡市公式ホームページ
電車・バスで JR今宿駅から徒歩10分
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 福岡市経済観光文化局 TEL:092-711-4666
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
元寇防塁跡(生の松原地区)

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元寇防塁跡(西新地区)

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元冠防塁跡(今津地区)

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祖原元寇古戦場跡

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