元寇防塁跡(生の松原地区)

元寇防塁跡(生の松原地区)

最初の蒙古襲来・文永の役後の建治2年(1276年)、鎌倉幕府執権・北条時宗が元軍の再襲来に備えて九州の諸武将に命じて築かせた石築地が元寇防塁。博多湾岸の東西に20kmにも渡って延び、9ヶ所ほどが現存(国の史跡)しますが、肥後国の地頭(御家人)が担当したのが現・福岡市西区の元寇防塁跡(生の松原地区)です。

肥前、肥後の御家人が築いた防塁

元寇防塁跡(生の松原地区)

長垂海岸から小戸海岸にかけての生の松原(いきのまつばら)2.5kmの間、白砂の浜と松原の境を元寇防塁が縫うように築かれています。

昭和43年に発掘調査が行なわれ、幅1~1.5m、高さ1.8mに石を積み上げ、背後を粘土で補強したことが判明。
西側は長垂海岸のペグマタイト(花崗岩)で、東側は小戸岬一帯の砂岩で築かれていますが、その接点が肥前国(東側の姪浜担当)と肥後国(生の松原担当)の分担の境界を示しているのではないかと推測できます。
鎌倉時代の肥後国御家人・竹崎季長(たけざきすえなが)が描かさたという『蒙古襲来絵詞』(もうこしゅうらいえことば)には、生の松原の石築地の前を通過する竹崎季長の姿が描かれています。
防塁の一部は築造時の高さに復元され見学が可能。

唐津街道に、「元寇防塁」の表示がありますが、駐車場はないのでご注意を。

元寇防塁跡(生の松原地区)
『蒙古襲来絵詞』後巻一「弘安の役」

画像協力:福岡市

元寇防塁跡(生の松原地区)
名称 元寇防塁跡(生の松原地区)/げんこうぼうるいあと(いきのまつばらちく)
所在地 福岡県福岡市西区生の松原
関連HP 福岡市公式ホームページ
電車・バスで JR下山門駅から徒歩8分
ドライブで 福岡都市高速姪浜ランプから約2.9km
駐車場 小戸公園駐車場(15分まで無料、以降有料)を利用。駐車場から徒歩20分
問い合わせ 福岡市経済観光文化局 TEL:092-711-4666
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
元冠防塁跡(今津地区)

元寇防塁跡(今津地区)

文永11年(1274年)、元・高麗連合軍は3万の大軍で博多湾西部に上陸(文永の役)。その後、博多の海岸線には防塁を築いていますが、保存整備されて見学が可能なのが元寇防塁跡(今津地区)。弘安4年(1281年)の2回目の蒙古襲来(弘安の役)で蒙

元寇防塁跡(西新地区)

元寇防塁跡(西新地区)

二度にわたる博多湾への元寇(げんこう)のうち、文永の役後の建治2年(1276年)、鎌倉幕府執権・北条時宗が元軍の再襲来に備えて九州の諸武将に命じて築かせた石築地が元寇防塁。福岡市早良区の西新地区(にしじんちく)は、当時、百道原と呼ばれた地で

元寇防塁跡(長垂地区)

元寇防塁跡(長垂地区)

福岡県福岡市西区今宿駅前1丁目、長垂海浜公園(今宿海岸)にある鎌倉時代の遺構が、元寇防塁跡(長垂地区)。文永11年(1274年)、元・高麗連合軍は3万の大軍で博多湾西部に上陸(文永の役)。その後、博多の海岸線には築かれた防塁のひとつで、国の

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

ABOUTこの記事をかいた人。

アバター画像

日本全国を駆け巡るプレスマンユニオン編集部。I did it,and you can tooを合い言葉に、皆さんの代表として取材。ユーザー代表の気持ちと、記者目線での取材成果を、記事中にたっぷりと活かしています。取材先でプレスマンユニオン取材班を見かけたら、ぜひ声をかけてください!

よく読まれている記事

こちらもどうぞ