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太田宿・本陣跡

太田宿・本陣跡

岐阜県美濃加茂市太田本町にある中山道の本陣の跡が太田宿・本陣跡。現存する遺構は、福田家が務めた本陣の立派な門のみで、文久元年(1861年)、皇女・和宮が14代将軍・徳川家茂に嫁ぐために下向した際に建てられたもの。元は、本陣の西正門であったものを東門のあった地に移築されています。

幕末に皇女・和宮も宿泊した本陣の跡

美濃路にありながら尾張藩領だったという中山道の太田宿(落合宿から鵜沼宿までは尾張藩が支配)。
元和元年(1615年)、木曽檜を産する木曽山(木曽や裏木曽などの山)は尾張藩領となり、さらに木曽檜を筏で運ぶ水運の要衝である美濃の太田宿などを領有しました。
太田宿は六町十四間(約670m)で往時には旅籠20軒を数えた大宿。

「木曽のかけはし、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」と謳われた中山道の難所、木曽川の渡河(太田の渡し=現在の太田橋の位置)があり、さらには中山道、飛騨高山道、善光寺道の追分(分岐)にあたるため大いに繁栄したのです。

町並みは東から上町、仲町、下町に分かれ中心に本陣が配されていました。
近くには旧太田脇本陣林家(国の重要文化財)も現存。
太田宿には木曽川の通行を管理する川並番所も設置されていましたがその遺構は残されていません。

文久元年10月20日(1861年11月22日)に京を出立した皇女・和宮。
太田宿に至ったのは7日後の10月27日(11月29日)。
沿道の警備5000人、行列本体6000人(花嫁行列は50kmにも及びました)、太田宿で用意したものも7856人・馬280頭、布団7440枚、枕1380個、飯椀8060人前、汁椀5210人前、膳1040人前、皿2110人前、通い盆535枚という膨大な数になっています。
沿道には砂を敷き詰め、見苦しい家は修理を施されたほどでした。

宿場の木曽川沿いに「太田宿中山道会館」もあり、中山道と太田宿の歴史を詳しく解説しています。

西の鵜沼宿との間には、うとう峠越えの旧道が現存し、うとう峠一里塚跡があります。

太田宿・本陣跡
名称 太田宿・本陣跡/おおたじゅく・ほんじんあと
所在地 岐阜県美濃加茂市太田本町
関連HP 太田宿中山道会館公式ホームページ
電車・バスで JR美濃太田駅から徒歩15分
ドライブで 東海環状自動車道美濃加茂ICから約5.5km。または、中央自動車道多治見ICから約16.5km
駐車場 太田宿中山道会館駐車場(50台/無料)
問い合わせ 太田宿中山道会館 TEL:0574-23-2200/FAX:0574-23-2201
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

うとう峠一里塚跡

岐阜県各務原市鵜沼にあるのが、うとう峠一里塚跡。中山道(なかせんどう)の鵜沼宿(うぬまじゅく)から太田宿の間は、木曽川が今日、日本ラインと呼ばれる激流区間となるため北側の山間、うとう峠を抜けていますが、峠の西側にあるのがうとう峠一里塚で、中

太田宿・太田の渡し跡

岐阜県美濃加茂市にあるのが太田宿・太田の渡し跡。中山道(なかせんどう)の三大難所のひとつで「木曽の桟、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」と俗謡にもある急流・木曽川を越える、太田の渡し(渡船場)。太田橋のすぐ下流が太田の渡し跡。川に向かって伸び

御代桜醸造

岐阜県美濃加茂市、中山道(なかせんどう)・太田宿の中心で明治26年創業という老舗の酒蔵が御代桜醸造(みよざくらじょうぞう)。明治時代、木曽川を下る筏乗り(いかだのり)や街道を行き交う旅人に愛されたという歴史を有する老舗の酒蔵です。代表銘柄は

旧太田脇本陣林家住宅

岐阜県美濃加茂市、中山道(なかせんどう)の宿場町で、木曽川対岸の今渡への渡し場であった太田宿。江戸時代、太田宿の脇本陣を務めたのが林家で、街道時代の建物が旧太田脇本陣林家住宅です。尾張藩太田代官の指揮下で宿場の行政事務も司り、家業として質商

 

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