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信長館跡

織田信長は、清洲城から小牧山城に居城を移し美濃攻略を狙います。そして美濃の稲葉山城を攻め落とすと、岐阜と名を改め、城と城下町を築きます。稲葉山(金華山)の山麓に庭園などを配した居館を設け、ここを「天下布武」の出発点としたのです。信長など歴代城主の居館跡は発掘調査が行なわれ、その暮らしぶりが明らかになってきました。

発掘調査でルイス・フロイトの見た「宮殿」が明らかに

居館跡の石積み

信長の天下取り(「天下布武」)は岐阜・金華山にあった山城・稲葉山城の攻略から始まります。
稲葉山城は『国盗り物語』で知られる「蝮の道三」こと斎藤道三が築城した城。信長は1567(永禄10)年、斎藤義興の軍勢を破り、稲葉山城を占拠します。
稲葉山城を攻略した信長は、城下町『井ノ口』を『岐阜』に改め、城下の復興を図っています。

同時に金華山の西麓にある槻谷(けやきだに)に信長館を建てています。
この場所に居館を築いたのは、斎藤道三の代の頃から。信長が大規模に改修をし、関ヶ原の合戦前哨戦まで使われていたことが判明しています。
現在、岐阜公園内で見られる段々となった地形は、織田信長が館を築いた時に造成したもの。
巨大な岩盤を背景にした庭園の跡なども発掘されています。
1569(永禄12)年、岐阜を訪れたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは、信長館を「宮殿」と称し、華麗な内部の様子を紹介しています。

信長は楽市楽座を振興したため、交通の要所に位置する岐阜には商業都市としての機能も生まれ、活気を呈していきます。

『功名が辻』の主人公・山内一豊が信長に仕官するのは、金華山山麓に館を定め、天下統一を視野に入れ「天下布武」の旗を掲げたこの頃のこと。

信長の居館は、日本遺産『「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜』にも登録されています。

岐阜公園の入口に置かれた「若き日の織田信長像」
信長館跡
名称信長館跡/のぶながやかたあと
所在地岐阜県岐阜市千畳敷下257-1ほか
関連HP織田信長公居館跡発掘調査ホームページ
電車・バスでJR岐阜駅・名鉄新岐阜駅から岐阜バスまたは、名鉄バス長良橋方面行きで15分、岐阜公園歴史博物館前下車、徒歩10分
ドライブで東海北陸自動車道岐阜各務原ICから約12km。または、一宮木曽川ICから約13.5kmで岐阜公園堤外駐車場
駐車場市営岐阜公園堤外駐車場(159台/1時間まで無料、以降有料)
問い合わせ岐阜市教育委員会 TEL:058-214-2365
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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