関ヶ原古戦場・大谷吉継墓(大谷吉隆墓)

関ヶ原の合戦で、最初に陣を築いた大谷吉継の陣跡から少し北側の山中に大谷吉継墓(墓碑には大谷吉隆と記されています)があります。車道沿いの平塚為広碑から山中へ徒歩15分、大谷吉継の陣跡からなら5分ほど山道を歩いた場所にあります。

大谷吉継の首が埋まっているという伝承の地

徳川家康とも親しかった大谷吉継ですが、関ヶ原の合戦では義を通し、一族皆西軍となって戦った大谷吉継。
小早川軍の離反で敗色が濃厚となった時、家臣・湯浅隆貞(湯浅五助)の介錯で切腹しています。

切腹後、主君の首を少し離れた山中に埋めた湯浅隆貞(湯浅五助)ですが、藤堂高刑(とうどうたかのり=藤堂高虎の甥)に見つかってしまいます。
大谷吉継は、当時ハンセン病(らい病)を患い、失明していました。
その首を敵軍に晒したくないと、家臣・湯浅隆貞(湯浅五助)に敵軍に見つからないように埋めることを厳命します。

湯浅隆貞(湯浅五助)は、藤堂高刑に「自分の首のを差し出す代わりに、主君の首をここに埋めたことを秘して欲しい」と懇願。
それを認めて藤堂高刑は大谷吉継の首を埋めた場所を明かしませんでした。

甥の活躍に目を細め、藤堂高虎は、徳川家康に報告しますが、家康は「五助を討ち取ったなら、大谷吉継の首のありかも知るはず」と問い正します。

それでも「どうぞ、私を御処分くだされ」と頑なに拒んだ藤堂高刑に対し、家康はアッパレと槍と刀を与えたという美談が今に伝わっています。

大谷吉継、大谷吉隆 どちらが正しい!?
ちなみに『烈祖成績』によれば、大谷吉継は、石田三成挙兵の際に、西軍として戦うことを決めて、吉隆に改名したと記されています。
これは、織田信長に攻められて河内若江城で自刃した三好義継の「よしつぐ」と同じ音ということを忌み嫌ったためとか。
『改正三河後風土記』にも大谷吉継、大谷吉隆と使い分けていますが、現存する古文書で「吉隆」と署名する文書は確認されていません。


関ヶ原古戦場・大谷吉継墓(大谷吉隆墓)
名称 関ヶ原古戦場・大谷吉継墓(大谷吉隆墓)/せきがはらこせんじょう・おおたによしつぐのはか(おおたによしたかのはか)
所在地 岐阜県不破郡関ケ原町山中
関連HP 関ケ原観光協会公式ホームページ
電車・バスで JR関ヶ原駅から徒歩35分
ドライブで 名神高速道路関ヶ原ICから約2.6km
駐車場 10台/無料
問い合わせ 関ケ原観光協会 TEL:0584-43-1600/FAX:0584-43-0915
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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