北関東の要衝、沼田(現・群馬県沼田市)に中世に築かれた城。戦国時代には上杉、後北条、武田の争奪戦が展開し、本能寺の変後は真田信幸が支配し、江戸時代には沼田藩の藩庁が置かれました。城跡は沼田公園として整備され、「日本の歴史公園100選」にも選定。沼田城は続日本100名城のひとつ。
上杉、武田、後北条氏が狙った北関東の要衝
享禄5年(1532年)、沼田顕泰(ぬまたあきやす)の築城。
永禄3年(1560年)頃には長尾景虎(上杉謙信)が沼田城を落として支配下にしています。
上杉謙信の死後には、越後のお家騒動「御館の乱」(おたてのらん)に乗じて相模国を拠点に関東支配を目指す後北条氏が攻略しています。
天正7年(1579年)、甲斐・武田勝頼と越後・上杉景勝との間に甲越同盟が結ばれると、武田勝頼の命で真田昌幸が攻略。
さらに武田氏の終焉とともに、織田信長家臣・滝川一益の領有となり、滝川益重(たきがわますしげ)が入城。
本能寺の変後は、真田昌幸の支配となり、天正17年(1589年)、豊臣秀吉の裁定により後北条氏の支配下になりますが、小田原征伐で後北条氏が滅びた後には沼田城は真田氏に返還され、家康養女の婿・真田信幸(真田昌幸の長男/NHK大河ドマラ『真田丸』では大泉洋が演じました)の居城となり、城郭の整備を進めています。
関ヶ原の合戦で東軍に与した真田信幸(以降は真田信之に改名)が、沼田城を本拠に、沼田と合わせ9万5千石の上田藩として立藩(慶長年間に沼田城に五層の大天守を建造、城を核とした町割を実施)。
大坂夏の陣を機に、真田信之(真田信幸)は居城を上田城に移し、沼田城は、長男・真田信吉が城主となり、真田信之(真田信幸)が松代藩13万石へ加増移封されると、沼田城は松代藩の配下に。
その後、真田家のお家騒動で、沼田藩が立藩し真田信利が初代の藩主となっています。
ただし、真田信利の暴政などで、沼田藩は廃止され(領地を没収)、天領に(幕府の命により沼田城は完全に破却)。
元禄16年(1703年)、本多正永(ほんだまさなが)が入封し、沼田藩2万石として再興(翌年には老中になっています)。
本多正永は、沼田領177カ村のうち46カ村・飛地領合わせ4万石の藩主として入封。
幕府の交付金で城を再興し三の丸に屋形を建てて藩庁にしています。
以降、明治維新を迎えるまで沼田藩の藩庁として存続しますが、とくに城の整備は行なわれていません。
明治の廃藩置県、版籍奉還で屋形も取り壊され、現存するのは石垣のみとなっています。
本丸・二の丸跡が沼田公園として整備
本丸と二の丸の跡が沼田公園として整備され、本丸跡に真田信吉が鋳造させた「城鐘」を吊るす鐘櫓が復元されています。
吊り下がる鐘は、寛永11年(1634年)、真田信吉が沼田で鋳造させ、沼田城三の丸の櫓に掛けて時報に用いられたもの。
明治維新の城破却の際、堀に埋められるところを平等寺が譲り受け、その後、明治31年頃から旧・沼田町の時鍾となっていました。
公園内には、野球グラウンド、ゲートボール場、テニスコート、旧生方家住宅(国指定重要文化財)、生方記念資料館、旧土岐家住宅洋館(国登録有形文化財)、沼小講堂記念体育館、武道場などが整備されています。
滑り台、ブランコ、鉄棒、ジャングルジムなどもあって子どもたちの遊び場にもなっています。
天守付近の石垣(堀)は高さ(深さ)6間(約16m)という江戸時代の記録がありますが、かなりの部分が埋まっており、往時の雰囲気はありません。
ちなみに、沼田城主代々の守護神は戸鹿野八幡宮(沼田市戸鹿野町800)で、鬼門除けは5代藩主真田信利が月夜野から移した歓楽院で、千手観音を本尊としたことから真田観音と呼ばれていました。
真田昌幸の沼田城の支城で、現在のみなかみ町にあった名胡桃城(なぐるみじょう)、さらには真田信之の支配下だった現・東吾妻町の岩櫃城(いわびつじょう)も続日本100名城に選定。
沼田城(沼田公園) | |
名称 | 沼田城(沼田公園)/ぬまたじょう(ぬまたこうえん) |
所在地 | 群馬県沼田市西倉内町594 |
関連HP | 沼田市観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR沼田駅から徒歩15分 |
ドライブで | 関越自動車道沼田ICから約3km |
駐車場 | 正面駐車場(53台/無料)・東駐車場(25台/無料) |
問い合わせ | 沼田市観光協会 TEL:0278-25-8555 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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