古墳時代に畿内に誕生したヤマト王権(古代日本の豪族連合政権)は、まずは瀬戸内の舟運を掌握する豪族を翼下に収め、王権の完成する4世紀以降、しだいに東国へと勢力を伸ばします。古墳時代の東国の中心は現在の群馬県。その権力の象徴として、周辺の豪族を圧倒する巨大な前方後円墳も築かれています。
群馬県には、古代に先進文化が花開いていた!
群馬県内に築かれた古墳の総数は、なんと1万3249基もあり、まさに全国でも有数の「古墳王国」。
古墳時代に豪族やその家族、有力な家臣などに築かれた墳墓なので、富と力を有した人たちが数多くいたことがわかります。
東日本の巨大古墳を見ても墳丘長ベスト5のうち、1位・天神山古墳(太田天神山古墳/墳丘長:210m、太田市)、3位・浅間山古墳(墳丘長:171.5m、高崎市)、4位・別所茶臼山古墳(円福寺茶臼山古墳/墳丘長:164.5m、太田市)、5位・白石稲荷山古墳(墳丘長:155m、藤岡市)と4つを占めているのです(2位は茨城県石岡市の舟塚山古墳/墳丘長:186m)。
TOP5に入る4つの巨大古墳は、すべて墳丘長150mの前方後円墳。
畿内で着々と中央集権国家への土台を固めつつあるヤマト王権の首長が築く前方後円墳の影響を受け、ヤマト王権との密接な関係性も推測できます。
関東平野は、近世以降は江戸湾に近い江戸が発展、中世には相模湾に面した鎌倉や、少し内陸の足利などが繁栄していますが、古代は洪水が少なく、安定した農業生産(稲作)が確保できる利根川上流部が「恵まれた土地」だったのです。
5世紀に馬が朝鮮半島から伝わると、「群馬」という県名にもつながる馬の放牧も始まり、同時に馬を輸送手段に使うことも行なわれます。
さらに海路と河川交通を使ってヤマト王権とも結ばれたのです。
この巨大な古墳は、農閑期に農民が動員されて築いたものですが、群馬県立歴史博物館は、奴隷的な使役ではなく、労働の対価として民に穀物などを与えた公共事業的な性格も有し、巨大な構造物を構築することで、集団としてのまとまりも生まれたのだと推測しています。
「古代、群馬は東国の中心だった」の証拠の数々
- 七輿山古墳(ななこしやまこふん/藤岡市、墳丘長145m超)は、土師ニサンザイ古墳(5世紀後半のヤマト王権の大王墓/墳丘長290m、大阪市/世界文化遺産)とよく似た形状
- 七輿山古墳からヤマト王権の大王級の古墳からしか出土しない7条突帯普通円筒埴輪(ななじょうとつたいふつうえんとうはにわ)が出土
=東日本では唯一の出土で、ヤマト王権との密接な関係が判明) - 白石古墳群(藤岡市)の皇子塚古墳や平井地区1号墳(ともに6世紀後半)から朝鮮半島とのつながりを示す単龍文環頭大刀(たんりゅうもんかんとうたち/朝鮮の三国時代に新羅などで製造)の柄頭(つかがしら)などの副葬品が多数出土
=白石稲荷山古墳(5世紀前半)からは高床倉庫の埴輪も出土 - 綿貫観音山古墳(高崎市)出土の獣帯鏡は、朝鮮半島の百済・武寧王陵の石室内から出土した獣帯鏡と同笵鏡(同じ鋳型から製作された鏡)で国宝
=新羅産の装飾馬具、伽耶系の突起付冑も出土し、ヤマト王権の外交を担当していたのか、あるいは王権にとって重要な人物だった - ヤマト王権から渡来系の人の入植地に選定されていたことなどから、朝鮮半島から渡って来た人が馬の利用や窯を使う技術をもたらしている
=須恵器(すえき)、埴輪を量産する窯が築かれ、量産化
=東日本屈指の豪華な金銅製馬具が出土 - 宝塔山古墳(ほうとうざんこふん/前橋市・総社古墳群、7世紀中葉)から出土した石棺の脚部に格狭間(こうざま)と呼ばれる仏教建築の仕様があり、ヤマト王権が広めようとした仏教文化(仏教伝来は538年)を、いち早く古墳造りに取り入れている
- 535年に緑野(現在の藤岡市)にヤマト王権の直轄地である屯倉(みやけ)が設置されたという記録がある
=ヤマト王権の影響力拡大の拠点 - 藤岡市には東国で最古級の古代寺院・山王廃寺(さんのうはいじ)がある
古代、群馬は東国の中心だった! | |
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