蒸気機関車やディーゼルカーが普及するまで、簡易な軽便鉄道などが、各地に敷設されましたが、その代表格が人車鉄道です。通常の鉄道を敷設する資金がない地域で、鉄道駅から「わが町」、「わが温泉地」、「わが鉱山」を結ぶため、あるいは有名社寺への参詣路線として、人が客車や貨車を押すという人車鉄道が敷設されたのです。
日本一の路線距離は小田原〜熱海の豆相人車鉄道

鉄道先進国のイギリスでは1841年(Hay Railway)から始まるという歴史ある軽便鉄道が人車鉄道(Handcar)で、アメリカでも1877年から利用されています。
人車鉄道というと、明治、大正時代の乗り物と思われがちですが、実は意外に命脈は長く、昭和24年に廃止された銀鏡軌道(しろみきどう/馬による牽引と併用)まで存続していました。
銀鏡軌道は、宮崎県の軌間610mmという軽便鉄道で、木材や木炭類の貨物営業に特化していた実質的に森林軌道ともいえる鉄道です(八重〜銀鏡/11km)。
終戦直後の一時期だけ乗合馬車的な運行も行なっていましたが、その補助的に人力も使っていたようです。
日本一壮大な人車鉄道は、熱海温泉の旅館の主人たちの要望と資金力で、在京の経済人の支援を受けて敷設された豆相人車鉄道(ずそうじんしゃてつどう)です。
豆相の「豆」は伊豆、相は「相模」で、伊豆国と相模国を結ぶ人車鉄道として全長25.6kmの軽便鉄道を敷設(明治29年全通)、それまで駕籠(かご)で6時間を要した道中が、4時間に短縮されたのです。
明治41年8月に軽便鉄道に転身し、蒸気機関車が牽引、所要時間も3時間に短縮されましたが、それまでは人が6人乗りの客車を押すスタイルの営業が続けられたのです。
意外に正確な時刻表も作られ、6両編成で、小田原〜熱海を1日6往復していました。
ただし、急な坂道になると客も一緒に押すというのどかな光景も見られたとか。
貴賓車もあって要人や皇族も利用しました。
東海道本線は? と考える人もいるかもしれませんが、当時の東海道本線は御殿場経由(現在の御殿場線が東海道本線でした)。
丹那トンネルがなく、熱海まで鉄道(当初は熱海線)が開通するのは大正14年3月25日まで待たねばなりませんでした。
そのため、熱海の旅館30軒の主人は、危機感を抱いて、人が客車を押す人車鉄道を導入したのです。
日本初の人車鉄道は、藤枝焼津間軌道で、明治24年7月25日開業、豆相人車鉄道が2番目となります。
大谷石の切り出しに使う宇都宮石材軌道、柴又帝釈天と金町駅を結ぶ帝釈人車鉄道など明治30年代は続々と各地に誕生し、明治時代には全国で人車鉄道の姿を見ることができたのです。
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