鹿児島神宮『隼人浜下り』|霧島市

鹿児島神宮『隼人浜下り』

毎年10月第3日曜、鹿児島県霧島市の鹿児島神宮で『隼人浜下り』が行なわれます。養老4年(720年)、ヤマト王権に反乱を起こし犠牲となった隼人族の霊を鎮めるために、隼人塚の建立とともに放生会(ほうじょうえ)として、養老4年に始まったとされ、鹿児島神宮から浜之市八幡屋敷まで神輿と鎧武者が練り歩きます。

1300年前に創始したという伝統行事

かつては鹿児島神宮(鹿兒島神宮)から浜之市八幡屋敷まで神輿の往復と神事が行なわれていました。
昭和9年を最後に途絶えていましたが、平成12年に地域イベントの要素を加え「伝統行事・隼人浜下り」として復活。
華やかな御神輿・武者行列・稚児行列など1000人にも及ぶ御下り(鹿児島神宮10:00~隼人塚11:45~八幡屋敷12:45~浜之市港14:30)を披露してくれます。
御下りの行列のほかに、隼人塚での隼人舞の奉納、隼人港で鯛を放流して隼人族の霊を慰めまる放生会(ほうじょうえ)なども予定されています。

隼人の反乱

養老4年(720年)に勃発した隼人の反乱(はやとのはんらん)。
九州南部に住む隼人族がヤマト王権に対しての大規模な反乱で、国郡制の導入や班田収授法など律令体制への取り組みに対して、共同体的な土地利用形態を有した隼人族が反旗を翻したもの。
初代の大隅国の国司だった大隅守・陽侯麻呂(やこのまろ/渡来系氏族)が殺害され、7ヶ所の城(奴久等、幸原、神野、牛屎、志加牟、曽於乃石城、比売之城)に立て籠もりましたが、ヤマト王権は九州各地から1万人以上の兵を集めて鎮圧。
大規模な反乱が大伴旅人(おおとものたびと)によって征討されたのは721年(養老5)年のことなので、隼人族が大和朝廷に帰順するのと前後して始まったのが浜下り。

戦死者の霊を弔うため戦場近くに隼人塚がつくられたと伝わっています。

ただし、実際に隼人がどんな民俗だったのかは定かでありません。



鹿児島神宮『隼人浜下り』|霧島市
開催日時 毎年10月第3日曜
所在地 鹿児島県霧島市隼人町内2496-1
場所 鹿児島神宮
関連HP 鹿児島神宮公式ホームページ
電車・バスで JR隼人駅から徒歩10分
ドライブで 東九州自動車道隼人東ICから約4.6km(浜之市は約1km)
駐車場 鹿児島神宮(350台)・浜之市(100台)
問い合わせ 鹿児島神宮社務所 TEL:0995-42-0020/FAX:0995-43-7797
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
鹿児島神宮

鹿児島神宮

鹿児島県霧島市隼人町内(はやとちょううち)にある古社、鹿児島神宮。大隅国一之宮で、平安時代編纂の『延喜式神名帳』に鹿児嶋神社と記され、大社に列せられています。社伝によれば、神武天皇の御代に、天津日高彦火火出見尊(あまつひこひこほほでみのみこ

隼人塚

隼人塚

鹿児島県霧島市隼人町にある平安時代の仏教遺跡が隼人塚(はやとづか)。3mほどの小高い丘に3基の石塔とそれを守るように4体の石像が鎮座し、国の史跡になっています。仏塔は仏の世界を象徴、それを邪悪なものから守るために四天王の像(持国天、増長天、

 

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