御茶屋鶴松亭跡(丸亀藩網干陣屋跡)

御茶屋鶴松亭跡(丸亀藩網干陣屋跡)

兵庫県姫路市網干区(あぼしく)にある戦国時代の羽柴秀吉の陣屋、そして江戸時代に飛び地として領有した丸亀藩の陣屋跡が、御茶屋鶴松亭跡(丸亀藩網干陣屋跡)。江戸時代に京極家は丸亀藩に転封されていますが、網干の興浜地区だけは飛び地として丸亀藩領が明治維新まで続いていました。

官兵衛が秀吉を招待し大茶会を催した地

天正8年(1580年)、三木城の落城で播磨国(はりまのくに)の平定を終えた羽柴秀吉は、黒田官兵衛に揖東郡(現在の網干、林田、伊勢など)1万石を与えています。
そのお礼に黒田官兵衛は、羽柴秀吉を網干の地に招待。
松が茂る揖保川河口の沖之浜洲の陣屋で大茶会を催したところ、羽柴秀吉の席の近くの大松に鶴が見事な巣をかけており、秀吉が陣屋の名を「鶴松亭」にするように命じたと伝えられています。
羽柴秀吉の子・鶴松が誕生するのは天正17年(1589年)と9年ほど後のことです。

その後、江戸時代には姫路藩領となりますが、寛永14年(1658年)に龍野藩領となり、万治元年(1658年)、当時の龍野藩主・京極高知の四国丸亀藩への移封に際し、網干の興浜地区だけは引き続いて京極家領として存続し(新在家地区は龍野藩領)、明治まで丸亀藩の飛地となって網干陣屋が置かれていました。
郡代(ぐんだい)や郡奉行(こおりぶぎょう)が在勤した丸亀藩網干陣屋は、揖保川の河口東岸に置かれ、脇には武家屋敷群も配されていました。
南側の町屋との間には堀を設け、川沿いには土塁を構築するというものものしい警固となっていました。
網干は、瀬戸内海舟運、揖保川の水運による交易で繁栄し、米蔵なども建ち並んでいたのです。

丸亀藩網干陣屋の陣屋門は明治3年に移築され、興浜歴史資料館の一部となって現存しています(昭和62年に修築)。

御茶屋鶴松亭跡(丸亀藩網干陣屋跡)
名称 御茶屋鶴松亭跡(丸亀藩網干陣屋跡)/おちゃやかくしょうていあと(まるがめあぼしじんやあと)
所在地 兵庫県姫路市網干区興浜1
電車・バスで 山陽電鉄山陽網干駅から徒歩15分
駐車場 なし
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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