茨城県北茨城市大津町五浦、茨城大学五浦美術文化研究所の敷地内、六角堂近くにあるのが亜細亜ハ一な里石碑(アジアはひとつなりせきひ)。天心終焉の地、赤倉の土地保存のため昭和17年に岡倉天心偉績顕彰会が組織され、亜細亜ハ一な里の碑が立てられたもの。
軍部が「Asia is one」を大東亜共栄圏の理念として利用
岡倉天心の著作『The Ideals of the East(東洋の理想)』(明治36年、岡倉天心がインド滞在中に執筆した本は英語で執筆)の冒頭の言葉、「Asia is one」は、幕末の動乱期から明治時代を足早に駆け抜けた稀代の国際人たる象徴的な言葉ですが、岡倉天心は大正2年没。
岡倉天心の死後、「Asia is one」、亜細亜ハ一な里(アジアはひとつなり)は、人間の本性たる美の破壊者として西洋帝国主義を批判、日本、中国、インドとその多様性を認めたロマン主義的アジア連帯論です。
儒教をはじめとした中国の思想やインド伝来の仏教が日本文化の基礎となっていることを前提に、岡倉天心は「普遍的なものを求める愛」をアジア民族共通の思想とし、「Asia is one」を唱えています。
岡倉天心はその論文の中で、当時、アジア人を蔑視する黄禍論に対抗する「White Disaster(白禍)」という言葉が使っているので、西洋帝国主義に批判的だったことは事実。
岡倉天心の唱えた「Asia is one」は、日中戦争勃発以降の軍国主義化の中で(大アジア主義が皇道主義、国粋主義と結びつき、民族主義的性格から帝国主義的侵略を合理化する理論に変遷)、第二次世界大戦では、軍部によって巧みに利用され(欧米による植民地支配からアジアを解放する旗手として担がれ)、大東亜共栄圏(「帝国を核心とする道義に基づく共存共栄の秩序を確立」東条英機)の理念を肯定するシンボルとして用いられたのです。
そうした背景の下、日米開戦の翌年の昭和17年、亜細亜ハ一な里石碑が建立されています(大東亜共栄圏という名のもとで日本語による皇民化教育や宮城遥拝を進めた日本軍と、文化や芸術を主眼に置いた岡倉天心の「Asia is one」は、決して結びつくものではありません)。
碑の文字は天心を終生敬愛した横山大観の揮毫、岡倉天心の横顔は日本美術院同人の彫刻家・新海竹蔵(しんかいたけぞう)によるもの。
亜細亜ハ一な里石碑 | |
名称 | 亜細亜ハ一な里石碑/あじあはひとつなりせきひ |
所在地 | 茨城県北茨城市大津町五浦 |
電車・バスで | JR常磐線大津港駅からタクシーで5分。市内循環バスで15分(平日のみ運行) |
ドライブで | 常磐自動車道北茨城IC、または、いわき勿来ICから約10km |
駐車場 | 市営駐車場(30台/無料) |
問い合わせ | 北茨城市観光協会 TEL:0293-43-1111 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
最新情報をお届けします
Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!
Follow @tabi_mag